野村胡堂 銭形平次捕物控(巻一) 目 次  赤い紐  傀儡名臣  お藤は解く  玉の輿《こし》の呪  金の鯉   解説  赤い紐     一  神田祭は九月十五日、十四日の宵宮《よいみや》は、江戸半分煮えくり返るような騒ぎでした。  御城内に牛に牽かれた山車《だし》が練り込んで、将軍の上覧に供えたのは、少し後の事、銭形の平次が活躍した頃は、まだそれはありませんが、天下|祭《まつり》又は御用祭と言って、江戸ッ児らしい贅《ぜい》を尽したことに何の変りもありません。  銭形の平次も、御多分に漏れぬ神田ッ子でした。一と風呂|埃《あか》を流してサッと夕飯を掻込《かっこ》むと、それから祭の渦の中へ繰り出そうという矢先、—— 「親分、た、大変」  鉄砲玉のように飛込んで来たのは、例のガラッ八の八五郎です。 「ああ驚いた。お前と付合っていると、寿命の毒だよ。又|按摩《あんま》が犬と喧嘩しているとか何とか言うんだろう」  そう言いながらも平次は、たいして驚いた様子もなく、ニヤリニヤリとこの秘蔵の子分の顔を眺《なが》めやりました。  全くガラッ八は、少し調子ッ外れですが、耳の早いことは天稟《てんぴん》で、四里四方のニュースは、一番先きに嗅ぎ付けて来てくれます。 「そんな馬鹿な話じゃねえ、正真正銘の大変だ、親分驚いちゃいけねえ」 「驚きもどうもしないよ」 「金沢町のお春——あの油屋の一粒種の小町娘が、夕方から見えなくなって大騒ぎだ。ちょいと行って見てやっておくんなさい」 「馬鹿だな。お前は、三日も帰らなきゃア騒ぐのももっともだが、夕方から見えなくなったのなら、まだ一と刻《とき》とも経《た》っちゃいめえ。今頃は雪隠《せっちん》から出て手を洗っているよ、行って見な」  平次は相手にもしませんが、どうしたことか、ガラッ八は妙に絡《から》み付いて動きません。 「ところが、町内中の雪隠も押入も皆んな探したんだ」 「何だってそんな大袈裟《おおげさ》なことをするんだ」 「だから大変なんだ、親分、お春坊は二日ばかり前から、——祭の済むまでには、私はキッと殺されるだろう——って言っていたんだそうだ」 「えッ」 「そればかりじゃねえ、日が暮れて間もなく、誰か男の人がお春の厭がるのを無理に引っ張って、聖堂裏の森ん中へ入ったのを見た者があるんだ」 「誰が見たんだい」 「困ったことに町内の樽御輿《たるみこし》を担いでいる小若《こわか》連中の一人だが、お祭へ夢中になっているから、その男の人相を突き止めなかった。お揃《そろ》いを着て、手拭で頬冠《ほおかぶ》りをしていたことだけは確かだが——」 「よし、行って見よう。お春坊は無事平穏に生きながらえるにしちゃ少し綺麗過ぎらア、こいつはなるほど、臭い事があるかも知れないよ」  平次はガラッ八を促し立てて、一と走り金沢町へ、何やら第六感を|おののか《ヽヽヽヽ》せながら飛んで行きました。  金沢町の油屋の一人娘お春というのは、今年十九の厄《やく》、あまり綺麗過ぎるのと、美人に有りがちの気位の高いのが災《わざわい》して、その頃にしては縁遠い方でした。もっとも、早くから許した仲の男があるとも言われ、とにかく、噂《うわさ》の種の尽きない性質《たち》の娘だったのです。     二  平次が金沢町へ掛け付けた時は、もう行列をそろえて、近辺を練り廻そうと言う間際《まぎわ》、何分|肝腎《かんじん》の花形、油屋のお春が姿を見せないので、町内の人達もひどく心配しておりました。その頃はことに、綺麗な娘をすぐって、いろいろに装《よそお》わせることが流行《はや》りましたが、お春は金沢町のピカ一だけに、今年は思い切って手古舞《てこまい》姿になり、町内の若い師匠や、容貌《きりょう》自慢の娘達三四人と、山車の先登《せんとう》に花笠を背負って金棒を鳴らしました。  抜けるような色白、多い毛を男髷《おとこまげ》にあげて、先をザブリと剪《き》ったのが見得、双肌《もろはだ》を脱いで、縮緬《ちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》一つになり、金沢町自慢の『坂上田村麿』の山車の先登に立つと、全く活きた人形が揺ぎ出したようで、わけてもお春の美しさと言うものはありませんでした。  それに並んで評判になったのは、町内の荒物屋の親爺で市五郎と言う五十男、葛西《かさい》から婿《むこ》に来る前は、大神楽《だいかぐら》の一座にいたそうで、道化は天稟の名人、潮吹《ひょっとこ》の面を冠って、倶利伽羅紋々《くりからもんもん》の素肌を自慢の勇みの間に交り、二つの扇を持って、一日中山車を煽ぎながら踊っております。  それはともかく、時刻は次第に移りますが、どうした事か美しいお春は帰って来ません。平次は御神酒所《おみきしょ》に陣取った顔見知りの人達の懇望で、ともかくも、町内|隈《くま》なくあさることになりました。  が、明神様の人ごみから町内を、一と通り歩いたところで、花笠を背負った手古舞姿のお春が、誰にも知れずに潜り込んでいそうな場所もありません。  男と逢引《あいびき》——そんな事も考えられないではありませんが、お春がいなければ、事を欠くのを承知で、留め置く人間もあるはずはなく、第一逢引のために、人に騒がれるなどと言うことは気位の高いお春のやりそうな事ではなかったのです。  平次は、町内の人達二三人と、ガラッ八を伴《つ》れて、三度目に聖堂裏へ行ったのは、もうかれこれ亥刻《よつ》〔十時〕でした。 「親分、この辺じゃありませんね。外《ほか》を探したらどうでしょう」 「いや、私はどうしても、この辺のような気がしてならないんだが、——聖堂の前へ廻って見ましょう」  平次はそう言って、|迷子《まいご》でも探すように、提灯《ちょうちん》を振り照して、淋しい聖堂前へ足を延ばしました。明神様を中心に、煮えこぼれるような賑いですが、この辺は流石《さすが》に人通りもなく、お茶の水の夜の静けさが、遠音《とおね》の祭を背景に、妙に身に沁みます。 「これは何だ」  平次は、道傍《みちばた》の崖から、何やら白いものを拾い上げました。 「お、そいつは揃いの手拭《てぬぐい》だ」  提灯にすかして見るまでもありません。町内で揃いに染めさした、波に千鳥と桜をあしらった手拭、少しお花見手拭|染《じ》みますが、派手な図柄を選《よ》った、若い人達の好みだったのです。 「これがあるようじゃ、この辺が一番臭い。提灯を上から見せて下さい」  二つ三つの提灯を、崖から差出すと、その頃はまだ、藪も段々もあったお茶の水の崖の下に、夜目に白々と手古舞姿の女の死体が横わっているのでした。 「あッ、お春さんだ」  騒ぎはそれから、火の付いた鼠花火《ねずみはなび》のように飛び交いました。綱をおろして、引上げて見ると、紛れもないお春、手古舞姿のまま、背後《うしろ》に背負った花笠の赤い緒で、見るも無惨《むざん》に絞め殺されていたのでした。  縮緬の長襦袢が、藪《やぶ》と杭《くい》に裂かれて、上半身の美しい肌が半分はみ出した上、男髷が泥に塗《まみ》れて、怨みの眼を剥《む》いた相好《そうごう》は、女が美しいだけに、凄まじさも一入《ひとしお》です。 「何奴《どいつ》がこんな虐《むご》たらしい事をしやあがったんだ」  祭の人数は、止めても、止めても、潮のように崖の上へ殺到して平次もガラッ八も手の付けようがありません。     三  間もなく、お春を誘い出して、聖堂裏の木立の中へ入った相手がわかりました。町内の酒屋の倅《せがれ》で、長吉という好《い》い男。 「長吉、手前《てめえ》だろう、お春坊を殺《あや》めたのは。お慈悲を願ってやるから、お役人が見える前に、皆んな申上げてしまいな」  平次は、これも祭の扮装《なり》のままの長吉を、明神下の自身番に引入れると、暑いのも構わず、表の油障子を締めさして、こう当って見ました。物柔かいうちにも、退引《のっぴき》させぬ手厳しさがあります。 「親分、御冗談でしょう。私《あっし》は、親の許した仲で、この秋はお春と祝言することになっているんですぜ、殺すわけなんかありゃしません。どうか下手人を捜し出して、敵《かたき》を討ってやって下さい」  少し気は弱そうですが、一生懸命なことは確かで、おろおろしながらも、自分の危ない地位より、お春の敵《かたき》を討ちたさに顫《ふる》えているようです。 「それじゃ、何だってお春を小立の中なんかへ誘い出したんだ」 「祝言前の若い者ですもの、折さえありゃ二人っきりでいたいのは無理もないでしょう。それ位のことは、親分——」  長吉は——察して貰いたい——と言った顔で、平次を見上げました。少しノッペリしているがお春の夫には打って付けの好い男で、人一人殺せそうな様子は微塵《みじん》もありません。 「お前の手拭いはどうした」 「ここに持っていますよ」  長吉はそう言って、懐ろから畳んだ手拭いを出しました。波に千鳥と桜、先刻崖のふちで拾ったのと全く同じ品で、長吉が落したものでないことは明らかです。 「お春と何をしていたんだ」 「ヘエ——」 「何をしていたんだよ」 「この次に逢う日と場所を決めました」 「それっきりか」 「ヘエ」 「どれほど話していた」 「四判刻《しはんとき》〔三十分〕ともかかりはしません。私が御神酒所へ引返した時は、まだ明るかったのですから——証人はいくらでもありますよ」 「よしよし、明るい内にお春を絞めて、お茶の水の崖まで引摺っても行けまいから、お前さんには罪はないだろう」  平次はこの男を帰してやろうか——と考えていました。滅多に人を縛らない平次で、これ位のことでは長吉を疑う気になれません。  しかしそれは無駄な思いやりでした。 「平次、殺しがあったそうだな」 「あ、旦那」  同心、湯浅鉄馬《ゆあさてつま》、この時祭の警固に出張していたのが、騒ぎを聴いて、自身番へやって来たのでした。 「下手人は挙《あが》ったのか」 「下手人と言うわけじゃ御座いません。殺された娘の許婚《いいなづけ》がこの男で、何かの足しにとも思って、いろいろ聴いておりました」 「そうか。俺はまた、その長吉とか言う男が、死んだ娘と一緒に聖堂裏へ隠れたように聞いたが——」  湯浅鉄馬がこう言うと、どうも話がむずかしくなりそうです。この男は、それだけ、執拗《しつよう》で大胆な、科人《とがにん》狩りの名人だったのです。     四 「親分、湯浅の旦那はとうとう長吉を縛って行ったようですね。あのノッペリした男が矢張り下手人ですかねえ」  と同心湯浅鉄馬と入れ違いに子分のガラッ八が入って来ました。 「俺には判らねえが、どうも、そうらしくは思われないよ。あの男は女など殺せるような柄じゃない」 「それじゃ、誰がやったんでしょう」 「それが解りゃ文句はないよ。——ね、ガラッ八、揃いの手拭いを落した人がないか、落したら、目印がなかったか、これだけの事を訊いて来てくれ」 「ヘエ、そんな事ならわけはありません」  ガラッ八は気軽に飛んで行きましたが、間もなく、巌乗《がんじょう》な三十男を伴れて、自身番へ帰って来ました。 「親分、この人が手拭いを落としたんだそうですよ」 「どこで、何時頃」 「どこで落したかわかりませんが、一刻《いっとき》ばかり前に気が付いて、彼方此方《あっちこっち》探したが見えません。手拭いがどうかしましたか、親分」  男はおよそ怪訝《けげん》な顔をして、マジマジと平次を眺めました。お茶の水の崖で、揃いの手拭いを拾ったことは、その時立会った二三人の主立った人に厳重に口留めしてありますから、この男は知っているはずもありません。 「お前さんは?」 「畳屋の辰蔵《たつぞう》と申します。|あっし《ヽヽヽ》の手拭いがどこにありましたか」  眼の鋭い、四角な顔をした辰蔵は、少し平《たいら》かでない様子で切口上に平次へ突っかかります。 「いや、そんなわけじゃない。辰蔵さん、つまらない事を聴くようだが、その手拭いには何か目印がありましたか」  と、平次、相手が悪いと思ったか、少し下手に出ました。 「ありますよ。御神酒所で休んでいる時、今日の昼頃、当り箱を玩弄《おもちゃ》にしていて、ツイ手拭いの端へ、たという字を書きました。|た《ヽ》たみやの|た《ヽ》つぞうの頭文字の積りです」 「なるほど」  平次は腕を拱《こまぬ》きました。崖で拾った手拭いにはそんなものは書いてありません。 「それで宜《い》いんだね、親分、|あっし《ヽヽヽ》はもう帰らなきゃアならないんだが——」 「親方、御苦労だったね、もう帰っても構いませんよ。ところで、お春の死体の側に、手拭いが一本落ちていたことを知っていなさるかい」 「ヘエ——、そ、その手拭いが、|あっし《ヽヽヽ》のだったとでも言うんですかい」 「いや、そうじゃないようだ。とにかく、この事は黙っていて下さいよ、下手人はどんな細工をするかも解らないから」 「ヘエ——」  辰蔵は少し恐れ入った様子で、ピョコリとお辞儀をすると黙って外へ飛出してしまいました。 「親分、あの男を逃してやって宜《い》いんですかい」  とガラッ八、辰蔵の態度が余っ程気に入らなかったものか、平次の掛け声一つで、追っかけて、捕えてやりそうな勢いです。 「放って置け。お春殺しの下手人なら、落した手拭いを吹聴して歩くような事はあるめえ」 「だって親分、人に何とか騒がれる前に、手拭いを落したと気が付けば、自分で名乗って出た方が、疑われずに済むわけじゃありませんか」  とガラッ八。 「おや、お前は恐ろしく悧巧《りこう》になったんだね。それ位だと、良い御用聞になれるよ」 「馬鹿にしちゃいけねえ」 「誰が馬鹿にするものか。ついでに御神酒所へ行って、辰蔵が本当に手拭の端っこへ|た《ヽ》の字を書いたかどうか、訊いて来てくれ。それが済んだら、お前は辰蔵から目を離さずに見張っているが宜《い》い。もっとも、何にもあるまいとは思うが」 「へえ、そんな事なら訳はありません」  ガラッ八はまたすっ飛んで行きました。     五  ガラッ八の報告は、辰蔵の言葉を立派に裏書しました。御神酒所にいる人達の話を総合すると、辰蔵は今日の昼頃やって来て、一と休みしながら、寄付《きふ》の帳面を付ける当り箱を引寄せて、手拭の端へ、小さく|た《ヽ》という字を書いたことは疑いもありません。 「墨が馴染まなくて、うまく書けないので、何べんも何べんも、上からなするもんだから、——辰|兄哥《あにい》、畳屋を廃《よ》して、提灯屋になるが宜い、——って町内の旦那方に冷やかされたって言いますよ。あの野郎、人相が悪いから、つまらないところで疑われるんですね」  ガラッ八はこう言って、それとなく自分の不明を弁解しております。 「人相が悪くて一々疑われた日にゃ、手前なんかも物騒だぜ。これから変なところへ立廻らねえ方が宜いよ」 「親分、からかっちゃいけねえ」 「ところで、冗談は冗談として、町内から祭の行列に出ている人達に一応逢って置きたいことがあるんだ。しばらく家へ帰らずに、御神酒所の前で待っているように、世話人に頼んで来てくれ。お前ばかり歩かせるようだが、俺が顔を曝《さら》しちゃまずい事があるんだ。——余計な事を言うんじゃないぞ。手拭いの手の字も口へ出しちゃいけねえ。解ったか」 「へえ」  ガラッ八はもう一度飛んで行きましたが、しばらくすると、自身番へ帰って来て、居睡りでもするように腕を拱《こまぬ》いて考え込んでいる平次をゆり動かしました。 「親分、人が揃いましたぜ」 「よし、今行くよ」  平次はようやく身を起しました。御神酒所の前まで行くと、山車を真中に、往来に床机《しょうぎ》と水桶とを持ち出して、揃いを着た町内の衆が一パイ、そこからハミ出して、右隣の菓子屋や左隣の道化の巧い荒物屋市五郎の店先までも占領しております。  平次は羽織を着た世話人に、何事か囁《ささや》くと、その人は、店先に立出でて、 「皆さん、済みませんが、銘々のお手拭いを見せて下さい。銭形の親分のお頼みですから、どうぞ悪しからず」  と言うと、揃いを着た男女の人波が、何やらわけのわからぬ動揺を打ちます。多分夜更けまで止められて、こんな馬鹿なことをされるのが不平だったのでしょう。 「唯今、世話人の方からお願い申上げたように、これから皆さんのお手拭いを見せて頂きます。御迷惑でしょうが、それだけの事で、お春さん殺しの下手人の見当が付くかも知れません。どうぞ、そのお積りで」  平次にそう言われると、さすがに嫌とは言えません。頬被《ほおかむり》を取るもの、鉢巻を脱ぐもの、襟や肩へ掛けたのを外すもの、銘々の手拭いを持って、潔白を示すように、平次の前へ押寄せて来ました。 「あ、そんなに突っ掛けちゃいけない、一人ずつ願います」  世話人に整理して貰って、平次は一人ずつ揃いの手拭いを見せて貰いました。  五人、十人、二十人、と見て行きましたが、|た《ヽ》の字を書いた手拭いなどはどこにもなく、それに似寄りの文字を書いたのもありません。 「もうこれだけかな、手拭いを見て貰わない方はありませんか」 「おい、こっちにまだ多勢いるぞ」  世話人の声に応じて、両隣、菓子屋と荒物屋の店先からも声が掛りました。 「ちょいとこっちへ来て貰おうか」  と世話人が言うのを押えて、 「いや、こっちから行って見ましょう」  平次は草履《ぞうり》を突っかけて、菓子屋の店の五六人を調べ、最後に荒物屋の店へ来ました。ここは若い男達を避けて、女達が五六人、荒物屋の剽軽《ひょうきん》な市五郎を中心に、キャッキャッと騒いでいるのでした。 「おや、銭形の親分、ここには、男殺しは多勢いますが、女殺しはいそうもありませんよ。もっとも私は別だが、何分こう年を取っちゃ——」  市五郎はそう言いながら、すっかり禿《は》げ上った前額をツルリと撫で上げました。 「ホ、ホホホホホ」  と笑いの洪水、——先刻、お春が殺されたと聞いて、青くなったことも忘れて、もう若い女らしく浮かれ調子になっております。 「念のために、ともかく、ザッと見て置きましょう」  平次は素気《そっけ》もなく一人一人、女の手拭い——脂粉《しふん》に染《にじ》んで少し艶《つや》めくのを見ておりましたが、三人目の手拭いを手に取ると、ギョッとした様子で、店先の提灯の下へ持って行きました。端っこには、紛れもなく、墨で書いた|た《ヽ》の字。 「私の手拭いがどうかしましたか、親分」  そう言って顔を挙げたのは、同じ金沢町の質屋の娘お勢《せい》、殺されたお春とは無二の仲で、負けず劣《おと》らず美しい、十八娘の、少し物に怯《おび》えた顔だったのです。 「いや、そう言うわけでもないが——お勢さん、この端っこの|た《ヽ》の字は、お前さんが書いたのかえ」 「あらッ、そんな字なんか——私、何にも知りませんよ。誰かの手拭いと変ったのか知ら」  お勢は愕然《がくぜん》として顔色を変えました。日頃から気象者で通ったお勢ですが、何となく唯ならぬ空気の圧迫と、思いも寄らぬ手拭いの文字に驚いたのでしょう。 「とにかく、この手拭いは私が預って置くよ。いいかえ、お勢さん」 「え」  恐怖と疑惑に打ちひしがれたお勢は、美しい顔を硬張《こわば》らせてこう言うより外にはなかったのです。 「親分、もう手拭い調べは宜《よ》うがすかい」  しばらくたってガラッ八は、化石したような、恐ろしい沈黙の中から声をかけまオた。 「いや、まだ三四人残ってるよ」  そう言うと平次は、お勢から借りた手拭いを畳んで懐ろに仕舞い込んだまま、大急ぎで片付けます。一番の最後は、道化者の市五郎、それで何もかも済んでしまいました。     六 「辰蔵、これはお前が書いた字に違いあるまいな」  と平次、一同を帰した後、辰蔵を呼止めて、お勢の手拭いを見せてやりました。 「違いますよ、親分、|あっし《ヽヽヽ》の字は、もう少し拙《まず》いし、こんなに上の方じゃなかったはずですよ」 「確かにそうか」 「ヘエ」 「お前、お勢を庇《かば》っちゃいけないよ」  平次は妙なところから、チラリと捜《さぐ》りを入れます。 「飛んでもない、親分、あの娘に怨《うら》みこそあれ、庇ってやる義理なんかあるもんですかい」 「怨み——と言うと何の怨みだ」  辰蔵は語るに落ちた形で、眼を白黒させます。 「極りは悪いが、言ってしまいましょう、実は——あの娘《こ》へちょいちょい当って見たんですが、容貌《きりょう》自慢でツンツンしやあがって、こちとらへは鼻汁《はな》も引っかけませんよ」 「そんな事だろうと思った。もう宜い」 「帰っても宜《い》いんですかえ」 「宜いよ」  辰蔵は虎の|あぎと《ヽヽヽ》を逃れた心持で、飛んで帰りました。 「親分、返しても宜いんですかい、お勢に怨みがあるという野郎を」  ガラッ八は歯痒《はがゆ》そうに辰蔵を見送りました。 「宜いよ」 「長吉でなく、辰蔵でないとすると、下手人はやはりお勢ですか、親分」 「お勢は一番怪しくないよ、——と言うのは、あの|た《ヽ》の字が偽筆で、その上、お春とお勢の仲のよかった事も解ったし、第一娘の細腕で、笠の緒で人一人殺せるわけもなく、死体を聖堂裏からお茶の水の崖まで引摺って行けるわけもない——」 「すると——」 「解らないな。まるで見当も付かない」 「ヘエ——」  平次がこんな事を言っていると、自身番の前へ、ノソリと立った者があります。 「あっ、旦那、こんなところへ」 「いや、お祭の様子を見に来ると、なにか騒ぎがあると言う話を聞いたが、どうしたのだ、一体」  それは、平次のためには、大事の上役で、その頃|吟味与力《ぎんみよりき》の利《き》け者、笹野新三郎だったのです。江戸中を騒がせるほどの大捕物には、ずいぶん与力が出張することもありますが、つまらぬ人殺しの現場へ、吟味与力が顔を出すと言うのは滅多にないことです。 「話は大概聴いたが、酒屋の倅も疑いは晴れたそうだな」 「ヘエ」  あれは同心の湯浅鉄馬が、無理に縛って行った、とは平次は言いません。恐れ入った様子で、首を垂れました。 「外《ほか》に心当りがあるか」 「何にも御座いません」 「困ったものだな。外ならぬ御用祭に、穢《けが》れがあっては恐れ入る。平次、今日中と言いたいが、せめて明日は下手人を挙げなければならぬぞ、町方の名折れにならぬよう——」 「ヘエ——」 「確《しか》と申付けるぞ」 「ヘエ——」  銭形の平次もすっかり恐れ入ってしまいました。こうまで言われると、日頃世話になっている笹野新三郎の顔の立つよう、どんな事をしても下手人を挙げなければなりません。     七  翌《あく》る日は九月十五日、日本晴の上天気、いよいよ神田祭の当日でした。  神輿に続いて三十六番の山車、——その頃はまだ城内へ入る慣《なら》わしはありませんが、それぞれ趣向をこらして、行列は氏子の町内を一と廻りします。  金沢町の山車の前には、手古舞姿の美しい娘が五人、お勢をピカ一にして、今日を晴れと押出し、その間を縫って潮吹《ひょっとこ》の面を冠った道化が一人、紅白の扇子を両手に持って、前から、後ろから、宙を踏むように踊り歩いて、山車と手古舞の娘と、手を牽く若い衆を煽《あお》ぎました。  その日は、昨夜までは行列に見えなかった、お多福《かめ》の面を冠った男が一人、潮吹の面を冠った市五郎の向うに廻って、これがまた実によく笑わせます。踊がうまいわけでも何でもありませんが、ひどく巧妙に要領を掴んで、散々潮吹に踊らせた上、毎度落ちをさらって行くのです。  潮吹はこの好敵手を迎えて、全く大車輪でした。囃子《はやし》の陽気な笛太鼓につれて、二つの扇が胡蝶《こちょう》のごとくもつれ、少し猫背になって、足を挙げ、尻を振り、首をすくめ、縦横無尽に踊り抜き、巫山戯《ふざけ》散らします。  その頃の神田祭、二百六七十年後の今とは、まるっきり違ったものに相違ありませんが、人々の浮き立つ心と、引っ掻きまわすような賑いには変りはありません。  行列が神田橋外を通る時一度、一と廻りして、本町通りを帰る時一度、潮吹《ひょっとこ》の踊りが、少し悪《わる》巫山戯と思うほど猛烈になった時、お多福《かめ》は何気ない様子で近付いて、その面をグイと剥ぎ取りました。  中から現われたのは、言うまでもなく薄禿の市五郎の顔。 「何、何をするんだ。冗談じゃねえ」  猛烈な剣突《けんつく》を食わせて、あわてて、揃いの袖で汗を拭きながら、四方を見廻しましたが、お多福はもうその辺にはおりません。 「何をしやあがるんだ。畜生ッ」  市五郎は、口汚《くちぎた》なく罵ると、剥《は》がれた面を引下げて冠り、前にもましてまた猛烈に踊り狂うのでした。  祭はこうして恙《つつが》なく終りました。最後に町内を一|繞《めぐ》りした一団は、元の御神酒所の前へ帰って、ホッとした心持でくつろぎます。  その辺の床几、店框《みせがまち》、捨石の上に、腰をおろして、汗を入れたり、水を飲んだりする人の中に、まだ止まぬ遠音の囃子につれて、潮吹は、ほとんど疲れを知らぬ機械人形《からくりにんぎょう》のように、滅茶苦茶に踊り続けているのでした。  その前に半円を描いた手古舞姿の娘達は、それを、面白いものと言うよりは、むしろ不気味なものに眺めて、そぐわない心持で、黙りこくっております。 「お勢さん、ちょっと来て貰おうか」  不意にどこからともなく姿を現わしたガラッ八は、手古舞姿のお勢の華奢《きゃしゃ》な肩へ、|むず《ヽヽ》と手を置きました。 「えッ」  お勢はサッと顔色を変えると、ヘタヘタと大地に崩折れてしまったのです。辰蔵の手拭いが盗まれたこと、その手拭いを盗んだ者は、お春殺しの下手人の疑いを受けていること、お勢の手拭いには、辰蔵の手拭と同じ|た《ヽ》の字が書いてあったこと——などを、お勢は一夜のうちに誰からともなく聞き込んで、自分の上に黒雲のように蔽《おお》いかぶさる、恐ろしい疑いに、一日一杯、生きた心地もなく歩いていたのでした。  御用聞のガラッ八に、肩へ手を掛けられて、ヘタヘタと崩折れたのも無理はありません。お勢は勝ち気で通った娘ですが、さすがに、もうこの上ふみ堪《こら》える気力がなかったのです。  潮吹は、またも猛烈に踊りました。自分の身体を掻きむしるような、滅茶苦茶な潮吹踊りが、お勢がガラッ八に引立てられて行く後姿を、恐ろしい不安で眺める人達に取って、何と言うそぐわないものだったでしょう。     八 「お前さんは誰だえ、どこへ俺を伴れて行くんだい」  潮吹《ひょっとこ》の面を禿げた前額へ上げた市五郎は、黙って自分を導いて行く、お多福《かめ》の面を冠った男を見詰めました。 「黙って来るが宜い」  面の中に籠って、何と言う不気味な声でしょう。月はかなり高くなって、お茶の水の川がキラキラと光ります。 「お前さんは誰だい。今日は俺の邪魔ばかりしているようだが——」 「誰でも宜い。ここはちょうどお春の死骸を投げ込んだところだ。ここでちょいとお前に話したいことがあるんだよ、まあ掛けるが宜い」  お多福の面の男は、声の調子も変えずに、こう言って、崖の上の捨石の上に腰をおろしました。 「御免蒙るよ。俺は急ぐんだ、そんな人間に付合っちゃいられない」  市五郎はそのまま、踵《きびす》を返そうとすると、 「まあ待ちな、面白い話をして聞かせる」  お多福の男は自信あり気に腰も起しません。 「早く言ってしまえ」 「急ぐな、市五郎。お春が死んでいたのはここだ、お春の亡霊立合いの上で、話したいことがある」 「…………」  何と言う不気味な言葉でしょう。 「お春は聖堂裏で笠の赤い紐で絞殺《しめころ》され、ここまで引っ担いで来て投《ほう》り込まれたんだ。昨夜は全く、鼻をつままれても解らない闇だった」 「俺はそんな事を聞きたくはない」 「酒屋の長吉が、お春をつれ出したというので疑われたが、あれはお春と近々一緒になるはずだったから、どう間違ってもお春を殺すはずはない」 「…………」  市五郎はモジモジしましたが、妙に引付けられて、振り切って逃げることも出来ません。青白い月が横半面を照して、こう語り進む男の、お多福の面が、妙に物凄く見えます。 「死体の側には手拭いが落ちていた。下手人が落したんだ、それには何の印もなかった。間もなく畳屋の辰蔵が手拭いをなくしたと名乗って出た。辰蔵はきかん気の男だが、嘘《うそ》をつく人間じゃない。それに、その手拭いの端に、|た《ヽ》の字を書いたことは、多勢の人間が見て知っている」 「…………」 「本当の下手人は、辰蔵の手拭いを盗んだが、|た《ヽ》の字が書いてあることに気が付いて、驚いてそこだけ割いて捨てた、手拭いの端っこを五分や一寸割いても、誰にもわかる道理はない」 「…………」 「ところが、直ぐ、手拭い調べが始まった——本当の下手人はお勢に罪を被《き》せたかったが、証拠の手拭いの端を割いて捨てたので、お勢の手拭いと取換えても何にもならない。そこで、急に思い付いて、お勢が置き忘れて立上がった手拭いをそっと隠して、その端へ|た《ヽ》の字を書いた——、間もなく手拭いを取りに来たお勢は、そんな細工をされたとも知らずに、恐ろしい手拭いを自分の身につけていた」 「…………」  市五郎は次第に引付けられて、もう立上がろうともしません。少し離れた捨石の上に腰をおろして、ワナワナと顫えてさえおります。 「お勢の手拭いを調べた時、端っこに書いた|た《ヽ》の字がまだ濡れていた。辰蔵は昼頃書いたと言うから夜中まで乾かずにいるはずはない。それに、筆蹟《て》も違っている」 「嘘だ嘘だ、そんな出鱈目《でたらめ》な事を言って、俺を罪に落そうたって——」  市五郎は不意に立上がると、サッと逃げ出そうとしましたが、それより早く身を起したお多福の男は、飛付いて確と襟髪を掴んでしまいました。 「馬鹿ッ。もう免れぬところだ、神妙にしろ」  左手で面をかなぐり捨てると、言うまでもなく、銭形の平次、市五郎を膝の下に押えたまま、こう続けました。 「俺は昨夜のうちに縛ろうと思ったが、少し腑《ふ》に落ちない事があって、お前の様子をもう一日見ることにした。お前にはどう考えても、お春を殺す怨みも、お勢に罪を被《き》せる怨みもないはずだと思ったからだ」 「…………」 「ところが、お前は潮吹の面を冠って、滅茶苦茶に踊っているくせに、面を剥いで見ると何時でも泣いていた。それからお勢がガラッ八に引立てられると、気違いのように踊り出した。あれはどう言うわけだ」 「知らない知らない。俺にはそんな覚えはない。何を証拠にお春を殺したなんて、言い掛りを付けやあがるんだ」  市五郎は猛然として突っ掛りましたが、平次は、静かに市五郎を引起して、 「そんな事を言ったって、免れようはない。市五郎、俺は無闇に人を縛らない事を、お前も知っているだろう」 「証拠を見せろ、証拠を」  市五郎はなおもたけり立って、平次の言葉を耳にも入れません。 「俺は、あの時手拭いを二筋ずつ比べて行ったんだ、お前気が付かなかったろうが——、すると、お前の手拭いは一寸ほど短かかった。端っこを割いた証拠だ」     九 「親分、済まねえ、恐れ入った、——お春はたしかに、この市五郎が殺したに違《ち》げえねえ」 「どうして殺した。そのわけを言え、それを知りたいばかりにお前をここへ伴れ出したのだ」  平次は縄もかけず、市五郎の水を浴びたように打ち萎《しお》れた姿を見下しました。 「親分、あのお春とお勢の阿魔《あま》が、二人で俺の娘のお雪を殺したんだ」 「何? お前の娘のお雪? あれは去年の秋、首を縊って死んだと言う話じゃなかったか」 「そうだ、親分、そのとおりだ。緋縮緬の扱帯《しごき》で首を縊って死んだが、手を下さなくとも、お春とお勢が下手人だ」 「わけを話せ、わけを」 「こうだ親分、聞いて下さい……」  市五郎は涙ながらに語りました。  お雪と言うのは市五郎の一人娘、お春にもお勢にも劣らず美しく育ったのが、お針友達で懇意になって、互に往来までしているうち、お春が、お雪の許婚、酒屋の倅の長吉に心を寄せるようになったのが間違いの因《もと》でした。  去年の神田祭に、お春が言い出して、縮緬の揃いを拵えることを約束しましたが、親一人子一人の貧乏な荒物屋の娘のお雪が、父親の苦労を見兼ねて、明らさまにねだり兼ね、木綿の似寄りの柄を着てお祭へ出ると、待ち設けたお春とお勢から、散々に恥をかかされたのでした。  その侮辱《ぶじょく》は、女らしく執拗で、底意地が悪くて、傍《はた》で聞いている者も、胸が悪くなるほどだったと言いますから、お雪が小さい胸を痛めたことは言うまでもありません。  とうとう、辛抱がしきれなくなりましたが、細い荒物屋を営む親にも打ち明け兼ね、自分の小遣を貯めてようやく買った、たった一本の緋縮緬の扱帯《しごき》を梁《はり》にかけて、十八の花を無慚にも散らしてしまったのです。 「親分、これが怨まずにいられるでしょうか。その上お春は、酒屋の倅の長吉と好い仲になって、近いうちに祝言まですると聞いて、私は腸《はらわた》が煮えくり返るようだ、親分」 「…………」  平次は黙ってうなずきました。潜々《せんせん》たる老の涙は、夜の大地に落ちて、祭の遠音も身内をかきむしるように響きます。 「親分、察して下さい。手古舞姿の美しいのを見ても、私は腹が立って腹が立って、——その上長吉と一緒に聖堂裏で逢引しているのに出会《でく》わすと、矢も楯《たて》もたまらなかった。娘の敵《かたき》、この時ばかりは鬼になって、あんなむごたらしい事をして退《の》けました。親分、察して下さい」  大地に身を擲《なげう》った市五郎は、身も浮くばかりに泣いて泣いて泣き入ります。 「市五郎、お前の心持はよくわかる。さぞ口惜しかったろうが、お上の法は曲げられない。それに、お勢までも罪に落そうとした細工が悪かった」 「…………」 「俺からもお慈悲を願ってやる。が、いまさら命を惜しんで卑怯《ひきょう》な真似をしてはならぬぞ、来い」  肩を叩いて市五郎を起すと、膝の土まで払ってやった平次は縄もかけずにそのまま引立てました。水のような月の光の中を——。  傀儡《かいらい》名臣     一 「親分、手紙が参《めえ》りました」 「どれどれ、これは良い手だ。が、余程急いだと見える」  銭形平次は封をきって読み下しました。初冬の夕日が這い寄る縁側、今までガラッ八の八五郎を相手に、将棋《しょうぎ》の詰手を考えている——と言った、泰平無事な日だったのです。 「使いの者が待っておりますが——」  ガラッ八は膝っ小僧を隠しながら、感に堪えている平次を促《うなが》しました。 「待てよ、手紙の文面は、——至急相談したいことがあるから、この使いの者と一緒に来て貰いたいと言うのだ。場所は柳橋、名前はない。——言葉は丁寧だが、四角几帳面な文句の様子では、間違いもなく武家だ、——使いの者はどんな男だ」 「女で」 「それじゃお茶屋の女中だろう、——手前《てめえ》行ってみな」 「|あっし《ヽヽヽ》が行くんですかい」 「お茶屋から岡っ引を呼び付けるような奴のところへは行きたくねえ、第一この左様然《さようしか》らばの文句が気に入らねえよ」  平次は日頃にもなく妙なことを言い出しました。 「|あっし《ヽヽヽ》も嫌いで、——お茶屋から岡っ引を呼び付けるような野郎は」  ガラッ八は内懐ろから顎《あご》の下へ手を出して、剃り立ての青髭《あおひげ》の跡を、逆様《さかさま》に撫で上げました。 「馬鹿野郎」 「ヘッ」 「人の真似なんかしやがって、——ようやく売り出したばかりの癖に、仕事の選り好みをすると罰が当るぞ」 「ヘエ——」 「世間でそう言っているぜ、神田の平次のところにいる八五郎は、見掛けほどは馬鹿じゃねえ——とな。手前にしちゃ大した評判だ。それにつけても、一つでも余計に仕事をして、腕を上げるのが心掛けというものじゃないか。手前も何時まで居候じゃあるめえ、——ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」  平次はいきなり笑い出しました。 「親分」 「俺も人に意見をするようになったのが可笑《おか》しかったんだよ。年は取りたくねえな、八」  年は取りたくないと言ったところで、平次はまだ三十を越したばかり、ガラッ八と幾つも年が違うわけではありません。 「親分、行きますよ。お茶屋だろうが、お寺だろうが」 「お寺と一緒にする奴があるかい」 「物の譬《たとえ》で——」  ガラッ八はそんな事を言いながらも、手早く支度をして、使いの者と一緒に飛出しました。 「思いの外《ほか》難かしい仕事かも知れないよ。ドジを踏むな」  念のため、そう言いながら、平次は物蔭からそっと覗きました。使いの女というのは、二十二三、柳橋あたりのお茶屋の女とはどうしても思えない、少し武家風な、その癖《くせ》妖艶なところのある年増でした。  ガラッ八の八五郎は、 「さア参りましょう、飛んだお待たせ申しました」  親分の平次みたいな顔をして女の先に立って行くのを、真物《ほんもの》の平次はほほ笑ましい心持で眺めていたのです。     二  日が暮れて初冬の夜は宵《よい》ながら更け渡るような心持でした。 「お静、何刻《なんどき》だろう」 「先刻上野の戌刻《いつつ》〔八時〕が鳴りましたよ」 「八の野郎は少し遅いようだね、間違いがなきゃア宜《い》いが」  平次は先刻から取越し苦労ばかりしております。|米※[#クサカンムリに「市」]流《べいふつりゅう》の素晴らしい能筆の手紙や、妖艶極まる使いの女、本名を隠した呼出し——などを総合して見ると、これは八五郎では荷が勝過ぎたかも知れない——といった、予感めいた不安にさいなまれていたのでした。 「おや?」  路地へ駆け込んだ人の足音に、お静が立上がるのと、外から戸を引開けるのが一緒でした。 「親分」 「八か。どうしたんだ、泥だらけじゃないか」 「驚いたの何のって、親分、ありゃ狐ですぜ」 「馬鹿だなア、今頃眉に唾《つば》を付けたって追っ付くかい」 「ひどい目に逢わせあがって、畜生ッ」 「どうしたんだ。まず、落着いて話せ」  平次はそれでも、八五郎の無事な顔を見ると、ホッとした様子で、お静に目配せして、足を拭《ふ》かせたり、袷《あわせ》の泥を払ってやったり、どうやらこうやら、八五郎だけの男振りを取戻させました。 「親分の前だが、あれは狐ですぜ。案内されて柳橋の鶴源《つるげん》へ行くと、あの手紙を書いた客はもう帰ったと言うじゃありませんか。その辺で御免を蒙《こうむ》りゃ宜いのを、あの女が——家まで案内しましょう、谷中の三崎町ですから——と言うのに釣られて、薄暗くなってから、谷中へ足を向けたのが間違いのもとで——」 「して見ると、あの女は鶴源の者じゃなかったのか。道理で——」  と平次。 「あの女は少し綺麗過ぎましたよ、それに持ちかけようが一通りじゃねえ。あんなのは羅生門《らしょうもん》河岸にも大根畑にもいませんよ」 「馬鹿だな、その気だから狐にも雌猫《めねこ》にも化かされるんだ——それからどうした」 「第一、あの話し振りの面白さと言うものは、親分の前だが、——柳橋から谷中まで、なんの事はねえ、掛け合い噺《ばなし》だ。色っぽくて、気がきいて、洒落《しゃれ》ていて」 「宜い加減にして筋を運べ、馬鹿馬鹿しい」 「谷中へ行くと、もう真っ暗だ。それからお寺と墓所を縫うように、半刻《はんとき》ばかり歩き廻って、気がついたのは天王寺前——」 「陰《いん》に籠《こも》った声なんか出したって、凄くも何ともないよ、——第一、この寒いのに、当もなく谷中を半刻も歩く奴があるものか」 「どこをどう歩いたか、それが判らねえから不思議だ」  とガラッ八。 「新造の顔ばかり見ていたんだろう、——そんな心掛けじゃ道なんか判る道理はねえ」 「親分、口惜《くや》しいがそのとおりだ。すると、天王寺の常夜灯の前で、いきなりニヤリと笑った。凄いの凄くねえの、——親分の前《めえ》だが、女が良《い》いと、一倍凄く見えるね」  ガラッ八は長《なん》がい顔を人一倍長くして見せました。少し仕方噺になりますが、本人の真剣さは疑うべくもありません。 「それからどうした」 「気が付いて見ると女はいねえ。——正に煙のように消えたね。四方《あたり》を見廻すと、芋坂へ降りる小立の中に、チラリと影が射した。——姐《ねえ》さん、|ちょい《ヽヽヽ》と待った——と、追っかけると、いきなり闇の中から飛出して、ドンと来た者がある。——危ねえ、間抜け奴《め》ッ——と、いつもの調子でやらかすと、無礼者ッ、通行の女に戯《たわむ》れるとは不都合千万、そこへ直れ、ピカリと来た、——親分の前だが」 「親分の前じゃねえ、抜身《ぬきみ》の前で腰を抜かしたろう」 「御用ッ——と喰わせようかと思ったが、考えて見るとあまり好い器量じゃねえ、二言三言言訳を言って、根岸の方へ降りようとすると、いきなり後ろから襟髪《えりがみ》を掴んで、藪の中へ——」 「何んだ、その武家に投げられたのか」 「面目次第もねえが、物事ははっきり言わないと辻褄《つじつま》が合わねえ。——気がつくと尻餅を突いていたところを見ると、親分の前《めえ》だが、どうも|あっし《ヽヽヽ》の方が投げられたらしい」 「馬鹿だなア、それっきり引下がったのか」 「口惜しいが歯が立たねえ、何しろ恐ろしい腕だ、——その上言う事がいい」 「…………」 「銭形平次——と言うから、どれほどの男かと思ったが、なんと弱い野郎か——って言やがる」 「何? 手前を平次と間違えたのか。そいつは面白い」  平次は膝を乗出しました。 「ちっとも面白くはねえ、谷中を引張り廻されたり、藪の中へ投り込まれたり」 「諦《あきら》めろ、八。こいつは大物らしいぞ、——とにかく鶴源まで行ってみよう」  平次は立上がりました。羽織を引っ掛けると、お静の手から脇差を受取って、突っかけ草履、切火を浴びながら、促し顔に八五郎を見やります。 「今から行くんですか、もう戌刻半《いつつはん》〔九時〕ですぜ」 「戌刻半でも子刻《ここのつ》〔十二時〕でも、これは放っちゃ置けない」  平次は何やら大事件を嗅ぎ出した模様です。     三  鶴源はまだ宵でした。暖簾《のれん》に遠慮して、お勝手口へそっと番頭を呼出して訊くと、 「その方なら確かにいらっしゃいました。が、銭形の親分さんのところへ使いを出して、親分さんが旅に出られてお留守と聞くと、ひどく|がっかり《ヽヽヽヽ》なすった様子で、御料理はほんの箸《はし》を汚しただけ、御酒を一本綺麗におあけなすって、夕方御帰りになりました。——左様で御座います。御年配は四十そこそこ、まず厄前《やくまえ》というところで御座いましょう。御身分は旗本や御家人ではなし、御留守居にしては地味でしたし、御大身の御用人というところで御座いましょう」  こんな事を教えてくれます。稼業柄、人間の鑑定《かんてい》だけは堂に入ったものです。 「有難う、——そんな事じゃないかと思ったよ。ね番頭さん、俺は確かに神田の平次だが、この一年ばかしは急《いそが》しくて旅どころか、大師様へお詣りさえ出来ない始末さ。今日は珍しく暇で、朝から家にいて八五郎と詰将棋《つめしょうぎ》だ」 「…………」 「使いの者は俺の家へ来たには違いないが、この男を俺と間違えて、一刻《いっとき》あまり谷中を引廻したそうだ。——一体その武家が俺のところへ出した使いというのは、どんな女だったい」 「女じゃ御座いません、男の方で——その御武家のお供をして来た、渡り中間《ちゅうげん》風の若い男で御座いました」  話はすっかりこんがらかってしまいました。 「そいつは変だ、俺のところへ来たのは、九尾《きゅうび》の狐が化けたような、凄い 年増だ。——何か、恐ろしい行違いがあるに違いない」 「…………」  番頭もガラッ八も顔を見合せるばかりです。 「その武家は、どこの何と言う方か、帳場や女共には判っているだろうね」 「それが一向判りません、全くのふりのお客で。それに、こんな場所へは滅多にいらっしゃりそうもない御仁体でしたが、御帰りの時は大層な御奮発で、女中に一分ずつ祝儀を下すった上、私にまで丁寧な御挨拶で御座いました」 「外《ほか》に心づいた事はないだろうか」 「親分さんへ差上げたものの外に、手紙を二本も御書きなすったそうで、——それから、ひどく沈んで、御帰りにはどこかの御寺へ廻るようにと、御供へ言い付けていなすったようで御座います」 「日が暮れてから寺詣りか」 「ヘエ——」 「少しおかしくはないか、八」  平次は後ろに突っ立っている八五郎を顧《かえり》みました。 「谷中へ行ったんじゃありませんか。やはり、お狐《こんこん》の仲間で」  ガラッ八は胸のあたりで拳固《げんこ》を泳がせて、お狐《こんこん》の真似をして見せます。 「そんな気楽なことなら宜いが、——その武家は腹を切る心算《つも》りかも知れないよ。俺にはそんな気がしてならねえ、——お茶屋へ始めて来たような浅黄裏《あさぎうら》が、女中に一分の祝儀は出来過ぎているぜ。ね、番頭さん」 「ヘエ——」 「寺はどこだろう」 「根岸の寺と仰しゃっただけで、もっとも——早く行かなきゃ、御墓所《ごぼしょ》の門が閉まる——とも仰しゃったようで」 「墓場に門のある寺というのは、根岸に幾つもあるわけはねえ。行って見ようか、八」 「ヘエ——」  驚いたのは八五郎でした。谷中で散々|揉《も》まれた上、これから根岸へ行っては、亥刻《よつ》過ぎになってしまいます。 「番頭さん、その武家の羽織の紋を覚えちゃいないか、係りの姉さんに訊いて下さい」  間もなく番頭は女中を一人伴れて来ました。一分の祝儀が利いているせいか、これが思いの外いろいろの事を知っております。 「御召物は粗末な紬《つむぎ》で、御羽織は少し山が入っていましたが立派な羽二重で御座いました。御紋は丸に二つ引、御腰の物の拵《こしら》えも、大変御粗末でしたが、御人柄は立派で、少し厳《いか》つい方で御座いました。御酒《ごしゅ》の手酌のグイ呑みを遊ばして、お肴《さかな》にはろくに手もお付けになりません。お言葉は江戸で、お国侍ではなかったようですが、本当に、お固い、言わば野暮なお方で、お茶屋へなどは滅多にいらっしゃる方のようでは御座いませんでした」  これだけ聴けば平次には大方見当がつきます。     四  平次の活動は電光石火の素早さでした。事件の匂いがする、飛出す、一挙に片付ける——これが日頃の平次の癖《くせ》で、日が暮れようが、夜が更けようが、そんな事に頓着する平次ではなかったのです。  根岸へ行って、寺を一つ一つ叩き起すのは、あまり楽な仕事ではありませんでした。門前の花屋で済むのは花屋、それで解らないのは門番、門番のいないのは、庫裡《くり》へ廻って、寺男を叩き起すのです。  心付けと、十手と、詫言《わびごと》と、脅かしと、硬軟いろいろに使いわけて、亥刻半《よつはん》〔十一時〕頃、廻って来たのは、御隠殿裏《ごいんでんうら》でした。 「谷中へ近いからこの辺かも知れない」  平次のそう言った見当は外れませんでした。西洞院《にしのとういん》の寺男が、少しばかりの心付けと、十手を見せられて、 「薄暗くなる頃、立派な御武家が見えました。私は新米でお名前は存じませんが、本堂で拝んで、それからお墓へ廻って、半刻ばかり経って、暗くなってからお帰りのようで御座いました」 「案内はしなかったのかい」 「いたそうと思いましたが、よく知っているからと仰しゃって、閼伽桶《あかおけ》へ水だけ汲んで差上げました」  寺男は夕方の忙しさに不精した様子ですが、それにしても半刻あまり、薄暗い墓地にいたのは仔細がなければなりません。  平次とガラッ八は、寺男に提灯を持たせて、墓地の中へ入って行きました。寺男は何分新米で、何にも判りませんが、それでも、今日人の詣った墓はすぐ判りました。 「ない、——その武家の羽織は、袷《あわせ》とは不似合の山の入った羽二重だったというから、いずれ拝領物を一生着ると言った肌合いの人だろうが、丸に二つ引の定紋《じょうもん》を打った墓で、今日詣ったらしいのが見当らないのは不思議じゃないか」  平次は一方《ひとかた》ならず落胆《がっかり》した様子です。 「これは? 親分」 「その紋は丸に三つ引じゃないか——おや、墓が濡れている、——丸に三つ引の紋を、鶴源の女中が、ありふれた丸に二つ引の紋と間違えたかも知れない。こいつはおかしいぞ」  平次は横手へ廻って俗名を読むと、もう一度寺へ取って返して、住職を叩き起しました。 「神田の平次殿と言われるのか。それは御苦労なことじゃ。——あれは、御旗本で御役高共四千五百石の大身、大目付までせられた安倍丹後守の御墓じゃ。二年前に亡くなられて、当代は安倍丹之丞様、お若いが、先代に優《まさ》るとも劣らぬ知恵者で喃《のう》、早くも御役付、御小姓組|御番頭《ごばんがしら》に御取立、御上の御用で半歳ほど前から駿府《すんぷ》へ行っておられる。明日は江戸へ御帰りということじゃ。夕景先代の御墓へ詣られたのは、多分|用人《ようにん》の石田清左衛門殿であろう。用人と言っても、先々代は東照宮様御声掛り、直参に取立を断ったと言う石田帯刀《いしだたてわき》様で、陪臣《またもの》ながらたいした家柄じゃ」  眉の白い老僧は、こんな事まで親切に話してくれます。 「御屋敷はどっちでしょう」  と平次。 「谷中じゃ。三崎町で聞けば判る」  平次はそこまで聞くと、老僧の話の腰を折るように立上がりました。  谷中まで一走り。  安倍丹之丞の屋敷はすぐ判りましたが、厳重に門が閉っていて、子刻《ここのつ》近い刻限では入《はい》れようはありません。 「親分、諦めましょうか」  散々門を叩かせられた上、ガラッ八はとうとう悲鳴を挙げてしまいました。主人は留守、門番は横着に寝込んで、開けてくれそうもなかったのです。 「表から名乗りをあげて行っちゃ、具合が悪いことかも知れないよ。——どうだい八、泥棒の真似をして見る気はないか」 「ヘエ——、泥棒の真似」 「塀《へい》を乗越えるだけさ、——人の命には代えられない」 「やりつけない仕事だから、うまく行きゃいいが」 「泥棒の真似なんかやりつけてたまるものか」  二人はそれでも忍び返しのないところを探して、たいした苦労もなく塀を越してしまいました。中は真っ暗ですが、用人石田清左衛門の長屋を探すのはそんなに難《むず》かしい事ではありませんでした。 「八、これからが難かしいぜ」 「雨戸でも破るんで?」 「シッ」  二人は庭の方から、灯《あかり》の漏れる部屋へ廻りました。     五  上野の子刻《ここのつ》の鐘が、その最後の余韻《よいん》を闇の中に納めると、石田清左衛門は、かねて用意した席へピタリと坐りました。  二枚の畳を裏返して、白布を敷き詰め、前の経机には、観音経が一巻、その側には、ユラユラと香煙が立上《たちのぼ》っております。  黙って母家《おもや》の方を伏し拝むと、心静かに取上げたのは言うまでもなく短刀。蝋塗《ろぬり》の鞘《さや》を払って、懐紙《かいし》をキリキリと巻くと、紋服の肌を寛《くつろ》げて、左脇腹へ——。 「待った」  不意にどこからともなく声が掛ります。  石田清左衛門は静かに四方《あたり》を見廻しましたが、心の迷いと思ったものか、もう一度短刀を取直しました。 「お待ちなさいまし」  縁側の戸が一枚、敷居から外れて闇の中へ落ちると、そこから現われたのは、平次と八五郎。手と足とで飛込むように、呆気に取られる清左衛門の短刀に縋《すが》り付いたのです。 「誰じゃ、不躾《ぶしつけ》千万」  静かな最期を妨げられて、取乱したという程ではありませんが、さすがにムッとした様子です。 「私はお使いを頂いた神田の平次で御座います」 「えッ」 「中に悪者が入って、鶴源へは参り兼ねましたが、その代り危いところへ間に合いました」 「…………」 「石田様、仔細を仰しゃって下さい。どんなことがあるにしても、腹を切るのはせっかちで御座います」 「武士が腹を切るのに|せっかち《ヽヽヽヽ》も悠長《ゆうちょう》もない、——俺は、夜明けまでは生きていられないのだ」 「それは叉どう言うわけで御座います。とにかく、一度はこの平次に相談しようとなすった位ですから、一応|承《うけたまわ》ってから、何とか思案のつくものなら、この平次の及ぶだけの事は致して見ましょう。夜明けまでと言うと、まだ、たっぷり三刻あります」  平次は何時の間にやら、清左衛門の手から短刀をもぎ取っておりました。 「それでは話そう、——が、昼のうちなら、何とか手をくだす術《すべ》もあったろう。今となっては何分遅い」  清左衛門は寛《くつろ》げた肌をかき合せると、屏風を引寄せて腹切り道具を隠し、火桶の側に二人をさし招いて話し出しました。  その話はかなり長いものですが、掻《か》いつまんだ筋だけ通すと、こんな事になります。  安倍家の先代、大目付を勤めた丹後守が亡くなったのは二年前、跡を襲《おそ》った丹之丞は、実は丹後守の甥《おい》で、当年三十二歳の男盛りで非常な才物には相違ありませんが、物事に表裏があるので目上の受けの宜い割に、家来にとっては結構な主人ではなかったのです。  果して、義父丹後守の歿後《ぼつご》は、御小姓組御番頭と役付にはなりましたが、一面、丹後守の娘で、自分とは従兄妹《いとこ》の間柄なる本妻の綾野《あやの》を嫌い、とうとう一年経たないうちに、柳橋芸者のお勝を、奉公人名義で妾にいれ、それを寵愛するの余り、本妻の綾野を瘋狂《ふうきょう》と称して、土蔵に押込めてしまいました。  そんな悪法を書いたのは、丹之丞の遠い従弟《いとこ》で、安御家人崩れの針目正三郎、これはお猿のような感じの、肉体的に見る影もない人間ですが、悪智恵にかけては、人の十倍も働きのある男、常に丹之丞とお勝を煽動《せんどう》して、レールへ乗せない工夫ばかりしているのでした。  当主丹之丞にとって、用人の石田清左衛門はこの上もなく煙たい存在には相違ありませんが、この人間がいないと公儀のあしらいが違って来ますから、安倍家が立行きません。妾のお勝や、掛《かか》り人《うど》の針目正三郎では、どんなに石田清左衛門を邪魔にしたところで、東照宮御声掛りの石田帯刀を祖先に持ち、先代の愛臣——用人とは言いながらも、公儀に知られた名士石田清左衛門に、指一本かけることも出来なかったのでした。  安倍丹之丞が、上の御用で駿府へ行ったのは半歳前、江戸を出発しようと言う時、さすがに、悪智恵の逞《たく》ましい従弟や、妾のお勝に任せて置くのは不安だったものか、家康公の御墨付一封と、これも拝領物の安倍家重代の宝物、郷義弘《ごうのよしひろ》の短刀——金銀作りの見事な拵えのまま、手文庫に納めて、用人石田清左衛門に預けました。  それは、繰り返して言いますが、駿府に出発しようと言う前日の事でした。忙しい中ながら、手文庫の掛け紐《ひも》の上に、一寸幅ほどに断った美濃紙を巻いて、主人丹之丞と石田清左衛門が封印をし、そのまま、人知れず清左衛門の長屋へ持って来て保管して置いたのです。  ところが、主人丹之丞の用事が済んで江戸へ帰るという三日前、所用あって外出した清左衛門が帰って来て見ると、留守番をしていた下男の寅蔵《とらぞう》は、自分の部屋で、梁《はり》に首を吊って自殺し、用箪笥《ようだんす》の錠前は壊され、その中に入れてあった手文庫の封が切れて、御墨付と短刀は、真っ赤な偽物と変っていたのです。お墨付と見せたのは、どこにでもある小菊二三枚、短刀は、脇差を摺《す》り上げて禿ちょろ鞘に納めた、似もつかぬ偽物だったのでした。  石田清左衛門の驚きは想像も及びません。この東照宮様のお墨付と、公儀に書き上げになっている家宝の郷義弘《ごうのよしひろ》が無くなれば、間違いもなく安倍家は断絶でしょう、これほどの大事な品を預って、それを護り了《おお》せなかった清左衛門は、腹を三つ切っても追っつかないことになるのでした。  それから三日間、清左衛門は血眼になって探しました。寅蔵の自害は、簡単な届出で済みましたが、御墨付と短刀の紛失は、どうも、それと関係があるような気がしてならなかったのです。  怪しいのは、針目正三郎とお勝ですが、それも取止めた証拠は一つもありません。  幸い屋敷の中が清左衛門の自由になるので、縁の下から天井裏、土蔵納屋の中は言うまでもなく、雇人の荷物まで探しましたが、三日目の今日まで、御墨付や短刀の匂いも判らなかったのです。  正三郎とお勝は、一生懸命手伝ってはくれましたが、ともすれば後を向いて赤い舌を吐いていそうで、清左衛門は全く気が気ではありません。  明日の朝は、いよいよ主人丹之丞が江戸へ帰ると判った時、清左衛門はとうとう評判の銭形平次に逢って見ようと思い立ちました。  屋敷へ呼ぶわけにも行かず、そうかと言って、平次の宅へ行けば、後を跟《つ》けられるに決っております。思案に余ってお茶屋から使いを出すことまでは考えつきましたが、その使いに出した下男の森三《もりぞう》が、途中から買収されて、宜い加減な返事を持って来たとは夢にも知らず、平次に頼む望みも絶えて、菩提寺《ぼだいじ》に先代安倍丹後守の墓に詣《もう》で、当主丹之丞が帰る前にいよいよ腹を切って申訳だけはしようと思ったのでした。     六 「こんなわけだ、平次。主人丹之丞様は、川崎に泊っておられる。明日、早立ちで、辰刻《いつつ》か——遅くも巳刻《よつ》〔十時〕にはこの御屋敷へ御還りになろう。御留守を預った石田清左衛門は、御墨付と短刀が紛失しましたとは申上げられない、腹を切る気になったのはそのためだ」  清左衛門は静かに語りおわりました。今死を決した人のようでもない、何となく落着き払った親しみは、この人の人徳というのでしょう。 「危いことで御座いました。御墨付と短刀はこの屋敷から出るはずは御座いません。きっと明日の朝までには捜し出してお目にかけます」 「…………」  平次は安請合いと思われても仕方のないような、気軽な調子でこんな事を言います。 「ところで、その手文庫を拝見さして下さいませんか」 「それは易《やす》いことだ」  清左衛門の取出したのを見ると、梨地《なしじ》に菊の花を高蒔絵《たかまきえ》にした見事な手文庫の、朱の紐を巻いた封は破られて、中を開けると、二三枚の小菊と、見すぼらしい短刀が入っているだけです。 「この贋物《にせもの》の短刀には御心当りは御座いませんか」 「死んだ寅蔵のかも知れないと思うが、——イヤそんなはずはない。その拵《こしらえ》はひどくなっているが、短刀には見どころがある。銘を摺り上げてあるが、相州物の相当の品だろうと思う」 「寅蔵とやらも、こんな短刀を持っていましたか」 「そんな気がする。が、判然《はっきり》はしない」 「ところで、この封印は、丹之丞様のに間違いはないでしょうな」 「それは間違いはない、御主人は、その印形を駿府へ持って行かれた」 「この手文庫をお受取りになる前か、すぐ後で、何か変ったことはありませんでしたか」  平次は変なことを訊ねました。 「御主人が封印を遊ばして、いざ私の封印という時、中間《ちゅうげん》部屋で大喧嘩が始まった、——賭事《かけごと》の争いらしかったが、私が行って止めると、顔を見ただけでピタリと納まった」 「その時、手文庫に手を触れた者は御座いませんか」  と平次。 「いや、ない、ありようはずはない。手文庫は御主人の前に置いてあったし、私が喧嘩を納めて帰って来るまではほんの煙草二三服の間もなかった」 「もう一つ伺いますが、お勝さんとやらと、正三郎という方の荷物はお調べになりましたか」 「雇人共の荷物を調べた時、両人共進んで自分の荷物を調べさした」 「お勝さんと言うのは、二十二三の凄いほど綺麗な方で御座いましょう。左の下唇のそばに、愛嬌《あいきょう》ぼくろのある」 「そのとおりだ、どうして知っておる」  石田清左衛門は非常に驚いた様子ですが、平次とガラッ八は顔を見合せて苦笑しました。ガラッ八を平次と間違えて、この屋敷近い谷中まで送らせて、滅茶滅茶に翻弄《ほんろう》した女、それは四千五百石取の大旗本の妾お勝が、たまたま奔放な野性の赴《おもむ》くまま、名題の銭形平次を弄《もてあそ》んだ積りの悪戯《いたずら》に外ならなかったのでした。その時ガラッ八を投げ飛ばしたのは、多分主人の従弟《いとこ》の針目正三郎でしょう。  それより先、新米の下男森三は、石田清左衛門の使いで鶴源を出たところを、待構えていたお勝に捕って、——平次は旅に出た——と言い含められて帰ったのでしょう。 「私には段々判って来るような気がします。それから、夜の明けぬうちに、土蔵に押込められていなさる、という奥方の綾野様に御目にかかりましょう」 「それは安いことだ」  石田清左衛門は提灯を点けて、二人を戸外《そと》へ送り出しました。 「えいッ」  闇の中で、不意に平次の声。  提灯を差出すと、軒下に中間風の男が一人、見事な当身を喰わされて目を廻しておりました。 「これが森三というので御座いましょう。私共の話を立聴きして、注進に出かけるところでした。明日まで窮命《きゅうめい》させましょう、縄と手拭いを——」  平次は正体もない森三をキリキリと縛り上げると、猿轡《さるぐつわ》を噛ませて、物置の中へ放り込みました。 「さア参りましょう」  どこまで落着いているかわかりません。     七  翌る日|巳刻《よつ》少し前、安倍丹之丞は谷中の屋敷に帰りました。  役高を加えて四千五百石というと、小さい大名ほどの暮し、家の子郎党の出迎えの物々しさ、その歓迎の晴がましさと言うものはありません。  丹之丞は衣服を改め、旅の埃《ほこり》を払って即刻登城。夕景、上々の首尾で立帰りました。 「清左衛門を呼べ、誰か」 「ハッ、御召しで御座いましたか」  清左衛門は、丹之丞の前に平伏しました。打ち寛《くつろ》いだ丹之丞の前には、久し振りの愛妾お勝が精一杯の粧《よそお》いを凝らして、旅の疲れ休めの盃をすすめております。 「その方に預けた手文庫はどうした。あの中には、身にも家にも代え難い大事の品がある。持って参れ」 「ハッ、これに持参いたしました」  石田清左衛門は後ろの襖《ふすま》の蔭へ、何時の間に持ち込んだか、梨地高蒔絵《なしじたかまきえ》に朱の紐を結んだ手文庫を、恭しく捧げて、主人丹之丞の前に据えました。 「清左衛門」 「ハッ」 「封印はどうした」 「切れております」 「馬鹿奴、封印を切って持って来るとは何事だ、——万一中に間違いがあると、その分には差し置かぬぞ」 「…………」  手文庫の蓋《ふた》を払った丹之丞。 「これは何だ、清左衛門」  いきなり立上がると、足を挙げてハタと手文庫を蹴飛ばしました。畳の上に乱れ散る小菊、偽物の短刀。 「恐れながら——」 「何が恐れながらだ。権現様御墨付、郷義弘《ごうのよしひろ》の短刀、この二品をその方に預けたではないか。このような唯の懐紙二三枚と、大|なまくら《ヽヽヽヽ》の短刀を預けた覚えはないぞ」 「ハッ」 「御墨付と短刀は安倍家の重宝、一日もなくて叶わぬ品だ。どこへやった」 「清左衛門が御預り申上げたのは、この二品に相違御座いません」 「ば、馬鹿奴」  丹之丞は思わず一刀の柄《つか》に手を掛けました。 「篤《とく》と御配慮を願います。私|奴《め》が御預り申上げましたのは、確かにこの小菊と|なまくら《ヽヽヽヽ》」  清左衛門は顔を上げました。強《したた》かな四十男の表情は、若い主人を圧して、寸毫《すんごう》も譲る気色はなかったのです。 「あの二品がなくては、安倍家は断絶だ。それに直れ、手討にしてやる。せめて公儀への申訳け」  丹之丞の手には早くも抜刀《ぬきみ》が、連ねた灯にギラリと光ります。 「恐れながら、御墨付と短刀は、この御屋敷の中にあるに相違御座いません、——御屋敷中の物で、私|奴《め》の調べの届かない品と申せば、殿様御出発|際《ぎわ》錠前をおろされた御手元の御用箪笥だけで御座います。念のため、御所持の鍵にて、その上から二番目の抽斗《ひきだし》を御調べ遊ばすよう、平に御願い申上げます」 「無礼者、予が自身で隠したと申すのか」  丹之丞はカッとなりました。思わず一刀を大上段に、はしたない見得をきります。 「何で左様なことを、——ただ、世の中には思い違いと申すことが御座います。その御用箪笥の中をお改めの上、そこにも二品がありません時は、私の手落ちに相違御座いません。打首なり縛《しば》り首なり、御心のままに御成敗を願います」 「汝《おの》れッ」  丹之丞は振りかぶった刀のやり場に困りました。 「まアまア、それは御無体。石田、貴公も悪いぞ、一体家来の癖に口が過ぎる。御詫《おわび》をせい——殿は次の間で、盃を改めて御寛ぎ遊ばすよう」  どこからともなく飛出して、振り冠った丹之丞の刃と、石田清左衛門の間へ入ったのは、念入りの醜男《ぶおとこ》のくせに、軽捷で精力的で、何となく強《したた》かさを感じさせる正三郎——丹之丞の遠い従弟という、針目正三郎その人だったのです。     八 「平次、俺はもう武士が厭になった。お前が見透した通り、御墨付と短刀は、やはり主人の用箪笥の中にあったらしい」  長屋へ帰って来ると、石田清左衛門は、いかにも|がっかり《ヽヽヽヽ》した様子でした。 「そうで御座いましょう。それでなくては、辻褄が合わないことばかりで御座います」  平次は会心の笑み——物悲しくさえ見える苦笑を見せました。主人に裏切られて、打ち萎《しお》れた石田清左衛門を見ると、自分の予言が当ったことなどに、つまらぬ誇りを感じてはいられなかったのです。 「私には解らぬ事ばかりだ。この後の身の処置も付けなければなるまい。平次、——あの二品はどうして主人の用箪笥にあったか、教えてくれぬか」  清左衛門の折入った顔を見ると、こればかりは言うまいと思った平次も、ツイ誘われるように唇が綻《ほこ》ろびます。 「石田様、お気の毒で申上げられませんが、この上隠して置くのも罪が深過ぎます。何もかも御話し申しましょう」 「…………」 「三四日前に手文庫の封を切られた時、中味が紛失《ふんしつ》せずに、念入りに偽物と変っていたのが第一番の不思議で御座います。手文庫の中の二品を狙ったのなら、偽物を用意して来て、わざわざ取換えて行くはずは御座いません。——どうせ封印を切ったのは、外からひと目見れば判るのですから、中へ偽物を入れたところで、何の誤魔化《ごまか》しにもならないのです。まして、その偽物は、真物《ほんもの》とは似も付かぬ粗末な品で、誰が見ても一目でそれとわかります」 「なるほど」 「曲者は、封印さえ破ればよかったのです。封印を破るところを寅蔵に見付けられて、驚いて絞め殺したので御座いましょう、それを梁に吊して逃げ帰ったのです」 「封印を何のために破ったのだ」 「石田様、驚いてはいけません、貴方様を罪に陥すためでした」 「えッ」 「中味は前から偽物だったので御座います」  平次の言う事は益々奇っ怪でした。 「そんな事はない、主人から受取る時、よく調べて封印をした——」 「御主人が封印をして、石田様が封印をする前に中間部屋の喧嘩が始まってお立ちなすったと仰しゃったでしょう」 「そのとおりだ」 「その喧嘩も細工です、——石田様が立った後で、御主人は御自分の封印を破り取って、手文庫の中身を偽物と摺り換え新しく封印し直して、素知らぬ顔をしておられた。石田様は喧嘩を納めて帰って来られて、その上へ御自分の封印をなすった。——中を空にして置くと持った時の心持で判ります、偽物を入れたのは手文庫の手応えを誤魔化すためで御座いました」 「フーム」 「私が、このお屋敷の中で調べ残した、たった一つの用箪笥の中にあるに相違ないと申上げたのはそのためで御座います」 「何のために、そのような事を」  清左衛門はゴクリと固唾《かたず》を呑みました。目は血走って、唇を破れるほど噛んでおります。 「御主人丹之丞様にとって、先代の愛臣、石田清左衛門様は煙たくてたまりません。その上折があれば小言も言い、ツケツケ諌《いさ》めもし、苦い顔もする。ことに、お勝の方と、正三郎がたまりません」 「…………」 「丹之丞様は才物だがお若い。充分我儘で、不人情でいらっしゃる。先代の愛臣を何とかして取り除きたいが、公儀まで知られた方で、石田帯刀様の子孫を、腹を切らせるわけにも、追い出すわけにも参りません」 「解った、平次。——主従の縁もこれまで。それほど邪魔な清左衛門なら覚悟がある」  石田清左衛門は勃然《ぼつぜん》として立上がりました。何をやり出す気かわかりませんが、日頃温良な人物だけに、思い詰めた気魄の凄まじさは、かえって近寄り難いものがあります。 「石田様、放って置きなすった方が宜しゅう御座いましょう。黙って御覧になっていても、今にデングリ返しが始まります」  石田清左衛門は腕を組んでドカリと坐りました。苦悩をそのまま刻んだような顔の皺《しわ》。たった一日の間に、この人は三十ばかり年を取ったのではあるまいかと思うようです。     九 「石田様、火急の御召しで御座います」  母屋から使いの女が来たのは、それから半刻あまり後のこと。清左衛門は平次の眼に促がされて、進まぬながら立上がりました。  案内知った奥——主人の居間に通ると、安倍丹之丞は先刻の勢いもどこへやら、火桶に顎《あご》を埋めるように、深々と腕を拱《こまぬ》いて、真っ蒼になって思案に暮れておりました。 「御召しで御座りましたか」  石田清左衛門、敷居際にピタリと坐ると、 「入れ、話がある」  何時《いつ》にもない訴えるような眼で、丹之丞はさし招きます。 「御用と仰しゃるのは」 「清左衛門、その方は知らぬか、——御墨付と短刀がない」 「えッ」  どんなに巧《たく》みに用意された言葉も、これほど清左衛門を驚ろかさなかったでしょう。見ると丹之丞の後ろの用箪笥はことごとく抽斗を抜いて、いろいろの書類、骨董が、その辺一杯に取り散らしてあります。半刻あまり、丹之丞自身が調べ抜いたのでしょう。 「清左衛門、俺が悪かった。この用箪笥に仕舞い忘れてその方を苦しめたのは、忘れてくれるであろうな」 「…………」  清左衛門はうな垂《だ》れました。よくもこうぬけぬけ弁解が出来ると思うよりも、驕慢《きょうまん》で才子肌で、人に頭などを下げた事のない丹之丞が、よくよく折れたのが気の毒でもあったのです。 「その方なら解るであろう。何とかして、あの二品を探し出してくれぬか。万一この事が公儀の耳へ入れば、安倍の家は立ちどころに断絶だ」  若くて御小姓組御番頭に出世した丹之丞は、門閥《もんばつ》の埒《らち》を越えて、大名にも若年寄にもなれるような野望を持っていたのです。今、公儀の御とがめを受け、家名断絶などとなっては、立身出世の梯子《はしご》の段々が高いだけに、その失望も一通りではありません。 「一応引取って考えさして頂きます。手文庫の封印については三日考え抜いた上、腹まで切りかけました。用箪笥の方は半刻経たないうちに何とか工夫が付きましょう」 「それでは頼むぞ」 「…………」  清左衛門はお長屋に自分の帰りを待っている銭形平次とガラッ八の顔を思い浮べながら、帰って行きました。  それから、ものの四半刻《しはんとき》ばかり。 「二品《ふたしな》の行方、大方相解りました」  丹之丞の前に出た石田清左衛門の顔は得意に輝いておりました。 「どこにある、出して見せい」  乗り出した丹之丞。 「恐れながら、その前に申上げたいことが御座います。——この三日間、お屋敷の中は、竈《かまど》の灰から、井戸の中まで調べました。私が申上げなければ、御墨付と短刀は二度と出ようがないという事をお含《ふく》み頂きとう御座います」 「それは解っておる。だからこそ、家来のその方に手を突いて頼むではないか」 「申上げます。が、それについては、私の方にも望みが御座います」 「何なりと申してみい」 「安祥《あんしょう》以来の御家柄——安倍の御家が大事でしょうか、それとも素姓も判らぬ奉公人のお勝が大事でしょうか」  清左衛門は開き直りました。 「これこれ、|いや《ヽヽ》味を言うな、解りきっておるではないか」  横の方から、頻りに凄婉《せいえん》な流し眼を送るお勝に気兼ねしいしい丹之丞はこう言うのでした。 「いや、私には一向解りません。お家の大事、あの二品がどうしても御入用とあれば、先ずこの女を阿呆払《あほうばら》いに遊ばすよう。この女狐《めぎつね》が屋敷内にいるうちは、どのような事があっても二品の行方は申上げられません」  清左衛門は頭を挙げるとハタとお勝を睨み据えました。断じて一歩も退くまじき気色です。 「私がいりゃ何が悪いんだい」  しゃしゃり出るお勝、清左衛門に手厳《てきび》しくやられて、虔《つつ》ましく塗り隠した野性が弾き出されたのでしょう、今にも飛びかかりそうな気組です。 「勝、ならぬぞ。大事の場合だ、その方は遠慮をせい」  野心家の丹之丞はさすがに事情の容易ならぬを覚りました。眼に物言わせて、猛り狂うお勝を退かせると、改めて、 「これで宜かろう。清左衛門」  清左衛門の方を促します。 「有難いことで御座います。さすがは御明智の殿、その御思召しなれば、お家は小揺《こゆるぎ》もすることでは御座いません」 「|おだてる《ヽヽヽヽ》な、清左衛門」 「もう一つ、序《ついで》に、奥方綾野様を、土蔵から御出し遊ばして以前のように御睦《おむつまじ》く御暮し遊ばすよう、清左衛門身に代えて御願い申上げます」 「それはならぬ、あれは気違いじゃ」 「いえ、胡麻摺《ごます》り医者の半斎の申すことなどは当てになりません。奥方は唯の気鬱《きうつ》で、土蔵から御出し申上げて、お勝のいないのを御覧になれば、即座に御病気平癒になりましょう」  清左衛門はちょっとも引きませんでした。この掛引きは、結局自分の方に弱みがある上、法外の出世を夢みている丹之丞の負けで、間もなく土蔵から綾野を出させると、即座に沐浴梳《ゆあみくしけず》り、化粧を凝らし、服装を整えて、丹之丞の前へ伴れてこさせました。 「奥、病気はもうよいそうじゃな」  丹之丞はヌケヌケとこんな事を言う肌合いの殿様だったのです。 「御機嫌の体《てい》、恐悦《きょうえつ》に存じます」  綾野は、礼の言いようもなく、そのままひれ伏しました。美しいが淋しい女、丹之丞をお勝の手から取戻して、夢心地に泣いている様子です。     十 「これで宜かろう、どうだ清左衛門、二品はどこにある」  丹之丞は改めて清左衛門に訊ねました。 「奥方の御側——土蔵の中で、朝夕拝んでおられた、観音像の御厨子《おずし》の中に御座います」  丹之丞も驚いたが、綾野も仰天しました。早速土蔵から御厨子を取寄せて見ると、なるほどその中に納めた観音様の背中に立てかけて、郷義弘の短刀と、家康公の御墨付が隠してあったのでした。 「それは奥方の御存じの事では御座いません。当屋敷に巣喰う悪者が、合鍵を作って用箪笥を開き二品を盗んで土蔵の中の奥方の御厨子に隠したので御座います。いかなる智恵者も、御瘋狂という名前で、痛ましくも土蔵の中に閉じ籠められておられる奥方の御手廻品までは、気がつきません」 「それは誰の仕業だ」 「奥方に一番近い方、時々は御世話を申上げた方」 「何?」 「御免」  清左衛門は丹之丞には答えず、いきなり後ろ手に障子を開くと、抜き討にサッと、縁側の人影へ浴びせました。 「あッ」  大袈裟《おおげさ》に斬られて、庭先に転げ落ちたのは丹之丞には遠い従弟で、綾野にはすぐの従兄《あに》に当る、針目正三郎の紅《あけ》に染んだ姿だったのです。 「お、正三郎」 「これが御家の獅子《しし》身中の虫で御座います。私の預りました手文庫の封を切るように、殿からお頼まれして、フト御家の乗取りを思いつき、改めて御用箪笥から抜いて、二品の紛失を公儀に訴え、後日自分の手柄にする積りだったので御座いましょう。仲間はお勝、あの女狐は一通りの悪者では御座いません」 「…………」 「これにて御家は万々歳、安倍家の栄は目に見えます。ゆめゆめ奥方と御仲違いを遊ばしませぬよう。——清左衛門はこれにて永《なが》の暇を頂戴いたします。さらばで御座ります」  立上がる清左衛門。 「これこれどこへ行くのだ、清左衛門。誰もその方に暇《いとま》をやるとは言わぬぞ」  丹之丞は驚きました。先刻までは邪魔にした家来ですが、今となっては、この名臣を手放すわけには行きません。 「恐れながら、人の去就には天の命が御座います。三世かけた主従の縁も、尽きる時はいたし方も御座いません。——打ち明けて申せば、私はもう武家奉公が厭になりました。丹後守様の御墓を守りながら、——手習師匠《てならいししょう》などいたして、独り者の気楽な世を渡りましょう」 「清左衛門」  奥方は叉新しい涙にひたっておりました。こうなっては、丹之丞にも、もう引留める言葉はありません。 「平次、——その方の拵《こしら》えた筋書どおり、一寸一分の違いもなく運んだ。改めて礼を言うぞ」  清左衛門は、長屋へ帰って来ると、何よりまず平次の前へ坐ってしまいました。 「旦那冗談じゃありません。私へお辞儀なんかなすっちゃ」 「いや、そうでない。俺は腹を切った上、安倍の御家も断絶するところであった」 「それを喰い止めたのは、旦那の忠義で」 「否々《いやいや》、この石田清左衛門は木偶《でく》のようなものだ。お前に操《あやつ》られて踊っただけの事ではないか」 「飛んでもない」  平次も少し照れがましい様子です。 「ところで、いよいよ城明け渡しだ。武士の嗜《たしな》み、その辺を取片づけて掃除だけでもして行こう。——森三は? お、まだ物置に窮命中であったな、ハッハッハッ」 「城明け渡しと仰しゃると?」  と平次。 「今宵限り、浪人したのだよ。平次、明日からは対等に付合ってくれるだろうな」  何と言う朗らかさ。  間もなく手廻りの品だけ持った石田清左衛門は、平次とガラッ八を伴れて安倍家の門を夕闇の街の中へと歩み出しました。  お藤は解く     一 「平次、頼みがあるが、訊いてくれるか」  南町奉行配下の吟味与力《ぎんみよりき》笹野新三郎は、自分の役宅に呼び付けた、銭形の平次にこう言うのでした。 「ヘエ、——旦那の仰しゃることなら、否《いや》を申す私ではございませんが」  平次は縁側に踞《うずく》まったまま、岡っ引とも見えぬ、秀麗な顔を挙げました。笹野新三郎には、重々世話になっている平次、今さら頼むも頼まれるもない間柄だったのです。 「南の御奉行が、事をわけてのお頼みだ、——お前も聞いたであろう、深川木場の甲州屋万兵衛が今朝人手に掛って死んだと言う話を——」 「ツイ今しがた、溜《たまり》にいる八五郎から耳打ちをされました。あの辺《へん》は洲崎の金六が縄張で——」 「それも承知で頼みたい。——甲州屋万兵衛は町人ながら御奉行とは別懇《べっこん》の間柄、一日も早く下手人を挙げたいと仰しゃる——金六は一生懸命だが、何分にも老人で、届かぬ事もあろう、すぐ行ってくれ」 「畏《かしこ》まりました」  吟味与力に頼まれては、嫌も応もありません。平次は不本意ながら、大先輩洲崎の金六と手柄争いをする積りで、木場まで行かなければならなかったのです。 「八、手前が行くと目立っていけねえ、神田へ帰るが宜い」  永代まで行くと、後から影のごとく跟《つ》いて来る、子分の八五郎に気が付きました。 「帰れと言えば帰りますがね、親分、あっしがいなきゃア不自由なことがありますよ」  八五郎の大きな鼻が、浅い春の風を一パイに吸って悠々|自惚心《うぬぼれごころ》を楽しんでいる様子です。 「馬鹿、大川の鴎《かもめ》が見て笑っているぜ」 「鴎で仕合せだ、——この間は馬に笑われましたぜ。親分の前だが、馬の笑うのを見た者は、日本広しといえども、たんとはあるめえ」 「呆《あき》れた野郎だ、その笑う馬が木場にいるから、甲州屋へ行く序《つい》でに案内しようと言う話だろう、落《おち》はちゃんと解っているよ」 「ヘッ、親分は見通しだ」  八五郎はなんとか口実を設けては、親分の平次に跟《つ》いて行く工夫をしているのです。  木場へ行くと、町内大きな声で物も言わない有様で、その不気味な静粛の底に、甲州屋の屋根が、白々と昼下りの陽に照されておりました。 「お、銭形の」  何心なく表の入口から顔を出した洲崎の金六は、平次の顔を見ると、言いようもない悲愴な表情をするのでした。 「ちょいと見せて貰いに来たよ、八の野郎の修業に——」  平次はさり気ない笑顔を見せます。 「笹野の旦那の言い付けじゃねえのか」 「とんでもない、旦那は兄哥《あにき》の腕を褒めていなさるよ、年は取っても、金六のようにありたいものだって」 「おだてちゃいけねえ」  金六はようやくほぐれたように笑います。近頃むずかしい事件と言うと、八丁堀の旦那方が、すぐ平次を差向けたがるのは相当岡っ引仲間の神経を焦《いらだ》たせていたのです。 「俺の手柄なんかにする気は毛頭ねえ。どんな事だか、ちょいと教えて貰えめえか」 「それはもう、銭形のが知恵を貸してくれさえすれば、半日で埒《らち》が明くよ。証拠が多過ぎて困っているところなんだから」  根が人の良い金六は、自分の手柄にさえケチを付けられなければ——と言った心持で、気軽に平次と八五郎を案内しました。  店の中は、ムッとするような陰惨さ、この重っ苦しい空気を一と口呼吸しただけで、人間は妙に罪悪的になるのではあるまいかと思うようです。     二  木場の大旦那で、万両|分限《ぶげん》の甲州屋万兵衛は、今朝、卯刻半《むつはん》から辰刻《いつつ》までのあいだに、風呂場の中で殺されていたのです。  取って五十、江戸一番の情《わけ》知りで、遊びも派手なら商売も派手、芸人や腕のある職人を可愛がって、四方八方から受けの宜い万兵衛が、場所もあろうに、自分の家の風呂場で、顔を洗ったばかりのところを、剃刀《かみそり》で右の頸筋を深々と切られ、凄まじい血の中に崩折れて死んでいたのです。  声を立てたかも知れませんが、風呂場は二重戸で容易に外へは聴えず、下女のおさめが行って見て、始めて大騒動になったのでした。  家族というのは本妻が五年前に死んで、奉公人からズルズルに直った妾のお直、——三十五という女盛りを、凄まじい厚化粧に塗り立てているのを始め、先妻の間に出来た一粒種の倅、万次郎と言って二十三、親父の万兵衛が顔負けのする道楽者と、主人万兵衛の弟で、店の支配をしている伝之助という四十男、それに、番頭の文次を始め、手代小僧、十幾人の多勢です。 「どんな証拠があるんで、金六|兄哥《あにき》」  風呂場の血潮の中から、拾った剃刀や、さっき居間に運んだばかりの、万兵衛の死体を見ながら、平次はまず金六に当って見ました。 「人は見掛けに寄らないと言うが、——こんな騒ぎがあって驚いたことは、甲州屋の家の者で、主人の万兵衛を殺し兼ねない者が四五人はいるぜ」 「ヘエ——」 「世間体は良い男だったが、通人《つうじん》とか、|わけ《ヽヽ》知りとか言う者は、大方こうしたものだろう。お互に野暮ほど有難いものはねえ」  金六はすっかり感に堪えた姿です。 「どうしたんだ、洲崎の兄哥」 「妾のお直は二三日前から、出るの引くのと言う大喧嘩だ。——万兵衛が他に女が出来て、それを家に入れようとしていたんだ」 「なるほど」 「倅の万次郎は恐ろしい道楽者で、ゆうべも帰らなかったと言うが、今朝の騒ぎの後で気が付くと、二階の自分の部屋へ入って、グウグウ寝ていた」 「それから」 「番頭の文次は血の付いた着物をそっと洗っているところを、下女のおさめに見付けられ——」 「…………」 「主人の弟の伝之助は店を支配しているから、万兵衛が死ねば何万両の身代が自由になる、それに、内内の借金もかなり持っているそうだ、——第一、動きの取れない証拠は、万兵衛を殺した剃刀はこの伝之助の品で、家中の剃刀では一番よく切れる。伝之助は、逢って見れば解るが、——怖ろしい毛深い男で三日も髯《ひげ》をあたらないと山賊みたいになるから、自分の剃刀だけは人に使わせないように、町内の髪結床《かみゆいどこ》の親方に磨《と》がせて、大切にしまい込んであるのさ」 「フーム」 「その外、一番先に死骸を見付けたのは下女のおさめで、その時はまだ万兵衛は息はあったと言うから、これとても下手人でないという証拠は一つもない」 「…………」 「もう一人、万兵衛の幼《おさ》な友達で、今は蒔絵師《まきえし》の名人と言われる、尾張町の藤吉の娘、お藤がいる。これは並大抵でない綺麗な娘だから、気の多い万兵衛がちょっかいを出していたかも知れない」 「その娘が何だって、こんな家へ来ているんだろう」 「行儀見習と言う名義だ、——俺の娘なら、こんな家で行儀なんか見習って貰いたくはねえよ」 「有難う。それで大方判った。風呂場を見て、それから一人一人逢わせて貰おうか」  平次は死体の側を離れてまだよく掃除《そうじ》していない風呂場を見ました。     三  中は惨憺たる碧血《へきけつ》、——検死が済んだばかりで、洗い清める暇もなかったのでしょう。  金六が説明したとおり二重戸でここで大概の物音をさしても、店や、お勝手へは聴えなかったのも無理はありません。万兵衛は通人らしくたしなみの良い男で、外出でも思い立って、髭を剃《あた》りに入ったところを、後ろから忍び寄った曲者に、逆手《さかて》に持った剃刀で右の頸筋をやられたのでしょう。  風呂場の構えは大町人にしても立派で、外からのたった一つの入口は、用心よく内鍵《うちかぎ》で厳重に締めてあります。 「外から入りようはないな」  平次は自分へ言い聴かせるように駄目を押しました。 「そのとおりだ、下手人は家の中にいた者だ」  金六も解りきったことを合槌《あいづち》打ちます。 「親分、——今朝、朝飯が済んでから半刻の間、主人の弟の伝之助はどこにいたか誰も知りませんぜ」  八五郎は早くも別の方面に手を付けて、最初の報告を持って来ました。 「よしよし、悪い事をする奴に限って、自分のいた場所などを、念入りに人に知らせておくものだ。伝之助は、馬鹿でなきゃア、潔白だろう」 「へエ——」  こう言われると、勢込んだ八五郎もツイ気が抜けます。 「倅の今朝帰った姿を誰も見た者がないと言ったが、もう一度よく聴いてくれ。それから、みないつものとおり仕事をするように、と言ってくれ。あっちこっちへ固まって、コソコソ話しているのは、褒《ほ》めたことじゃねえ」  平次はそう言いながら、まだ念入りに家の中を見廻っております。 「支配人の伝之助は、兄哥に逢いたがっているぜ」  金六は店の方を指さしましたが、 「もう少し、——今度は外廻りを見よう」  庭下駄を突っかけて外へ出ると、庭から、土蔵のあたり、裏木戸の材木を漬けた堀、夥《おびただ》しい材木置場から、元の庭へ帰って来ました。 「倅の部屋はどこだろう。——どこの家でも、息子は一番良い部屋を取りたがるものだが——」 「あれだよ」  金六の指したのは、裏木戸から入って、見上げる形になった二階でした。厳重な格子がはまって、人のいる様子もありません。 「当人はどこにいるだろう」  と平次。 「親父が死んじゃ遊びにも出られない。つまらなそうな顔をして、先刻《さっき》まで店にいたが」  何と言う嫌な空気の家でしょう。 「銭形の親分さん、御苦労様でございます。洲崎の親分さんにもお願いしましたが、何とかして一日も早く、兄の敵を討って下さいまし」  たまり兼ねた様子で、主人の弟——支配人の伝之助は庭に迎えました。なるほど四十三四の青髭《あおひげ》、人相は凄まじいが、その割には腰の低い男です。 「お前さん、いつ髯を剃《あた》りなすったえ」  平次の問いは唐突で予想外でした。 「ヘエ、三日前で御座いました。こんな騒ぎがなければ、今日は剃《あた》るはずでしたが——」  伝之助は恐縮した姿で頷《あご》を撫でております。 「剃刀はどこへ置きなさるんだ」 「風呂場の剃刀箱の中に入れております」  そんな事を訊いたところで、何の足しになりそうもありません。     四  次に平次が逢ったのは、番頭の文次でした。三十七八の狐のような感じのする男で、商売は上手かは知りませんが、決して人に好印象《こういんしょう》を与えるたちの人間ではありません。 「着物の血を洗っていたと言うが、そんな事をしちゃ、返って変に思われるだろう」  平次の言葉は峻烈《しゅんれつ》です。 「ヘエ、——それも存じておりますが、血が付いていちゃ、気味が悪う御座います」 「どうして付いた血だ」 「主人を介抱しようと思いましたので、ヘエ」  こう言ってしまえば何でもありませんが、平次は一脈の疑念が残っているらしく、番頭が向うへ行ってしまうと、ガラッ八に言い付けて、文次の身持と、金の出入、借金、貯金などのことを調べさせました。  三番目は妾のお直。 「親分さん、お手数を掛けて、本当に済みませんねえ」  主人が死んでも、化粧だけは忘れなかった様子で、帯の上を叩いて、こう流し眼に平次を見ると言った、世にも厄介な人種です。 「お前さん、主人と仲が悪かったそうだね」  と平次。 「とんでもない、——主人は本当によく可愛がって下さいましたよ」 「二三日前から、出すとか、出るとか言う話があったそうだが」 「御冗談で——三月になったら箱根へ湯治《とうじ》に行く約束はしましたが、その話を小耳に挟んで、とんだことを言い触らした者があるのでしょう。本当に奉公人達というものは——」  自分が元奉公人だったお直は、二た言目には、この|せりふ《ヽヽヽ》が出るのでした。 「主人から貰う手当はどうなっているんだ」 「そんなものは御座いません。給金を貰えば奉公人じゃありませんか、——主人はよくそう申しました。この家をお前の家と思え、不自由なことや、欲しいものがあったら、何でも言うように——って、ホ、ホ」  隣の部屋に、その主人万兵衛の、怨《うらみ》を呑んだ死体のあるのさえ、お直は忘れている様子です。  最後に店から呼出されたのは息子の万次郎でした。——不眠と不養生と、酒精《しゅせい》で、眼の血走った、妙に気違い染みた顔は、馴れない者には、決して好い感じではありません。 「お前さんの、昨夜帰った時刻は、誰も知らないようだが、本当のところは、何刻《なんどき》だったろう」  平次は、穏やかですが、突っ込んだ物の訊きようをします。 「今朝でしたよ、辰刻《いつつ》〔八時〕頃でしょうか——」 「誰も見た者がないのはおかしいが——」 「親父が死んで、大騒動していたんで、気が付かなかったのでしょうよ。——私は真っすぐに二階へ行って、昨夜から敷きっ放しの床の中に潜《もぐ》り込んでしまいました」 「誰にも見られないと言うのは可怪《おか》しい。それに、店にはお前さんの履物もなかったようだが」  平次は一と押し押してみました。 「雪駄《せった》はいつでも二階へ持って行きますよ。店へ置くと誰かに突っかけられて叶いません」  それはありそうなことでしたが、二階へ雪駄を持って行くのは、決して良い趣味ではありません。  が、金六が飛んで行って見ると、雪駄——新しい泥の着いたのが、二階の格子の内に、間違いもなく裏金を上にして並べてありました。  ちょうどそんな事をしているところへ、ガラッ八の八五郎が帰って来たのです。 「親分、大変なことを聞込みましたよ」 「何だ、八?」 「支配人の伝之助が、小僧を使にやって、三百両の現金《げんなま》を持出していますよ」 「何時だ、それは?」 「今日、——それも二た刻ばかり前」 「フーム」 「日頃、兄の物真似で、遊びが激しいから借金こそあれ、金のあるはずはない伝之助です。それが今日に限って三百両も持出せたのは不思議じゃありませんか」  これは幾通りにも考えられますが、一番通俗な解釈は、騒ぎの大きくなる前に、兄を殺して|くすねて《ヽヽヽヽ》置いた金を持出させ、火の付くように催促《さいそく》されている借金の一と口だけでも、免れようと言うのでしょう。一番小さい小僧に持出さしたのは思付きですが、権柄ずくで物を言い付ける習慣が付いているので、うっかり心付けをしておかなかったのが、ガラッ八ごときにしてやられる、重大な失策になったのです。 「野郎、神妙にせい、兄などを殺して、太てえ奴だ」  洲崎の金六は、もう伝之助を引立てて来ました。まだ縄を打ったわけではありませんが、物馴れた鋼鉄のような手が伝之助の手首をピタリと押えているのです。     五 「あッ、それは間違いです。叔父さんは、下手人じゃありません」  美しい声——少しうわずっておりますが、人の肺腑《はいふ》に透るような、一番印象づける美しい声と共に、十八九の娘が飛び込んで来ました。 「お前はお藤、——こんな場所へ入っちゃならねえ」  金六はそう言いながらも、眼は言葉の調子を裏切って、微笑を湛《たた》えております。この娘だけが、甲州屋中での、美しい明るい存在だったのです。 「でも、見す見す間違いをするのを見てはいられません」  娘は全身を金六と平次の前へ晒《さら》しました。死んだ主人万兵衛の幼友達、江戸一番と言われた蒔絵の名人、尾張町の藤吉の娘のお藤というのはこれでしょう。  若く美しく健康と幸福を撒き散らして歩くような娘で、この陰惨な家には、一番似つかわしくない存在でもあります。それだけにまた、主人万兵衛が可愛がってもいたのでしょう。 「間違いとは何だ、お藤」  と金六。 「でも、伝之助叔父さんは店中で知らぬ者のない左利きで、箸と筆を右に持つのが不思議な位です。旦那様の疵《きず》は、右の頸筋で、後ろから右手に剃刀を持って斬ったのでしょう。——そんな事が出来るものですか、伝之助叔父さんは、右手に刃物を持つと、紙も切れない位なんです」 「…………」 「それに、伝之助叔父さんはあの時、土蔵《くら》の中に入っていました」 「えっ、お前はどうしてそれを?」  驚いたのは金六——いや、それよりも驚いたのは伝之助自身でした。 「朝の御飯が済むと、そっと入って、半刻ばかり何かしていました。多分、お金を取出したのでしょう。金箱の鍵はむずかしいから、旦那でないと、なかなか開かないそうです」  お藤の言葉には、寸毫《すんごう》も疑いを挟む余地はありません。 「それは本当か、伝之助」  と金六。 「面目次第も御座いません。——今日に迫った内証の払い、どう工面しても三百両とは纏《まとま》らなかったので、兄には済まないと思いましたが、朝の忙しいところを狙って、そっと藏の中に忍び込み、違った鍵と釘で大骨折りで金箱を開け、三百両取出したに相違ございません。その証拠は、開けるにはどうやら開けましたが、あとを閉める工夫が付かないので、金箱はそのまま錠《じょう》をおろさずにあります」  打ち萎れた伝之助に嘘がありそうもありません。 「三百両はどこへやった」 「そのうちに兄が殺されて、家中が騒ぎになりました。金を持っていると疑われる基《もと》ですが、私が出掛けるわけにも参りません。工夫に余って、口の堅い、一番小さい小僧に八幡前まで持たしてやりました。——金を取出したのは悪う御座いますが、兄を殺《あや》めるような私ではございません」  何と言うことでしょう。平次の明智を働かせるまでもなく、たった十九のお藤が、即座に伝之助に掛る疑いを解いてしまったのでした。  次は、誰でしょう。     六 「親分、この野郎が逃出しましたよ」  ガラッ八の八五郎が、番頭の襟髪を取って引立てて来たのはもう申刻《ななつ》を廻る頃でした。 「何だ、文次じゃないか」  金六は飛び付くと、八五郎の手からもぎ取るように、その顔を挙げさせます。 「…………」  青い|やるせ《ヽヽヽ》ない顔と、狐のようなキョトキョトした態度は、金六の心証を、最悪の方面へ引摺り込みます。 「どこへ逃げる積りだ、——手前《てめえ》覚えがあるだろう」 「…………」 「白状して、お上のお慈悲を願え、馬鹿野郎」  金六の腕は、腹立紛れに、文次の胸倉を小突き廻します。 「私は何も知りません」 「知らない者が逃出すかい、太い野郎だ、——着物の血を洗ったと聞いたときから変だとは思ったがまさか逃出すとは思わなかった、とんでもねえ奴だ」  金六はすっかりムキになります。 「金六兄哥、その番頭は少し臆病過ぎはしないか、——顫えてるじゃないか」  平次は注意しましたが、金六いっかな聴くことではありません。 「芝居だよ、これは。悪者もこれくらい劫《ごう》を経ると、いろいろな芸当をする」  金六は双手を掛けてさいなみ始めました。 「親分さん、——こんな事を言っちゃ悪いでしょうか」  お藤はたまりかねた様子で、薄暗い部屋の中へ、邪念《じゃねん》のない——が、おろおろした顔を出します。 「お藤さん、構わないから、思い付いた事はみな言って見るが宜い、——とんだ人助けになるかも知れない」  平次は精一杯の柔かい調子で、この聡明そうな処女《おとめ》を小手招ぎました。  奉公人にしては贅沢な銘仙《めいせん》の袷《あわせ》、赤い鹿の子の帯を締めて洗ったばかりらしい多い髪を、無造作に束ね、脅《おび》えた小鳥のように逃げ腰で物を言う様子は、不思議な魅力を撒き散らします。 「文次どんは下手人じゃありません。お店からちょっとも動かなかったんですもの」 「それだけか」 「それに、洗った着物の血は裾《すそ》へ付いておりました。後ろから旦那を斬ったのなら、返り血は顔か肩か胸に付くはずです。あれはやはり騒ぎに驚いて駆けつけた時、裾へ付いた血です」 「…………」 「文次どんは、店中の評判になっているほど臆病なんです。着物の血を洗ってとがめられたので、すっかり脅えて、今度は縛られるに相違ないと思い込んだんでしょう。——逃げ出したのは、この人の臆病のせいで、旦那を殺したためじゃありません。嘘だと思うなら、店の手代、小僧さん達に聞いて御覧なさい。——文次さんは御飯の後で店から少しも動かないのは、私もよく知っております」  銭形平次に一句も言わせないような明察です。この不思議な娘の弁護を、文次はなんと聴いたのでしょう。金六の逞《たく》ましい腕の下にさいなまれながらも、両手を合せて、ボロボロと泣いているのでした。 「娘さんの言うとおりだ。金六兄哥、その番頭さんは人を殺せないよ」  と平次。 「チェッ、忌々しい野郎だ」  金六は突き飛ばすように、文次を放してやりました。     七 「銭形の、これじゃどうにもなるまい、一度引揚げるとしようか」  家中に灯が入ると、年寄の金六は、里心が付いたように、こう言うのでした。 「いや、もう一と息だ。——俺は何だか、次第に解《わか》って来るような気がする」  平次は少し瞑想的になっております。  店の次の八畳、古い道具の多い部屋ですが、灯が点《つ》くと、それでも少しは華やかになります。 「八、お直を呼んでくれ」 「合点」  八五郎は柄に似合わず軽快に飛んで行くとまもなく妾のお直を伴れて——いや、お直に引摺られるように入って来ました。 「お前さんの手文庫の中から、小判で二百三十両ほど出て来たが、あれはどうした金だい」  平次はこの念入りに化粧した顔を、出来の悪い人形でも見るような冷淡な眼で、ツクヅク眺め入りながら問いかけました。 「私の小遣ですよ」 「大層多いようだが——」 「でも、あれ位は持っていないと心細いでしょう。ホ、ホ」  隣室に万兵衛の死骸のあることを、この女はまた忘れた様子です。 「お前さんは万兵衛と喧嘩をしていた、どうかしたら近いうちに捨てられたかも知れないぜ——」 「冗談でしょう、親分さん」 「お前は、この家の跡取《あととり》の万次郎とは仲が悪かったそうだね」  平次は話題を一転しました。 「継《まま》しい中ですもの、それはね——」  白粉の首を襟に埋めて、妙に感慨無量なポーズになります。 「主人には嫌われ、息子とは仲が悪い、——お前の行くところはなくなっていた」 「そんな事はありませんよ、親分」 「それじゃ訊くが、今朝は主人と睨み合って朝飯もそこそこに、どこかへ姿を隠したそうだが、——あの騒ぎの起るまで四半刻ばかりの間、どこにいなすった」 「私の部屋ですよ」 「誰か見ていたのか」 「いえ」 「誰も見ないとすると、自分の部屋にいたか、湯殿にいたか判るまい」 「親分、そりゃ可哀想じゃありませんか。私は、そんな大それた女じゃありません」 「気の毒だが、疑いはみなお前の方へ向っている」 「そんな、そんな、馬鹿なことがあるものですか、私は口惜しいッ」  お直はとうとう泣き出してしまいました。白粉の凄まじい大崩落《だいほうらく》、春雨《はるさめ》に逢った大|雪崩《なだれ》のようなのを、平次は世にも真顔で凝《じ》っと見詰めております。 「親分さん、——それじゃア、お直さんが可哀想じゃありませんか、そんなにいじめて——」  お藤は見兼ねた様子で、また入って来たのです。 「お藤さんか、気の毒だが、主人殺しはこの女より外にない」 「いえ、大変な間違いです。お直さんは良い人です。——それに旦那が死ねば、この先お直さんの面倒を見てくれる人がありません、万次郎さんとは仲が悪いし」  お藤はやはり一番壺にはまった事を言いました。 「で——?」 「家中の者がみな疑われても、お直さんだけには、疑いが掛らないはずです」 「居間に一人でいたのを誰も見た者はない」 「それだけは嘘です、親分さん、——聴いて下さい。お直さんはあの時、裏口で私と愚痴《ぐち》を言っていたんです。御飯の後四半刻ばかり、旦那の事をかれこれ言ったので、申上げ難かったのでしょう、——ねえ、お直さん」 「…………」  お直はうなずきました。一言も口はききませんが、その眼には、感謝らしい光が動きます。 「御飯の後、あの騒ぎのあるまで、私とお直さんは一緒でした。どんな事があっても、お直さんだけは下手人じゃ御座いません」  屹《きっ》としたお藤の顔、その美しさも格別ですが、人に疑わせるような陰影は微塵もありません。     八 「こいつは驚いた、——外から曲者が入ったはずがなし、家の者であやしいと思ったのが、一人一人無実だとすると、下手人はお前さんより外にないぜ」  ガラッ八の無作法な指が、お藤の胸を真っすぐに指しました。 「馬鹿、何と言うことをぬかす。——もう一人、一番怪しいのがいるじゃないか、若旦那を連れて来い」  平次は少し機嫌を損《そこ》ねております。黙ってうな垂れるお藤——自分の出過ぎた態度を後悔している様子が、いかにもいじらしい姿でした。 「私はあっちへ参りましょう」  と、お藤、もう立ちかけているのを、 「いや、いて貰った方が宜い」  平次はそう言って押えながら、一方若旦那の万次郎を迎えました。 「お前さんの帰った姿を見たものがないと、少し話が面倒になるが——」 「ヘエ——、驚いたなア、そんな事で親殺しにされちゃ叶わない」  宿酔《ふつかよい》も醒めて、万次郎もさすがに閉口した様子です。 「朝のうちで、誰も店にいない時と言うと、飯時より外にない。その時そっと入って、風呂場へ行っても、気のつく者はないはずだ」  平次の論告は、相変らず峻烈でした。いつもの、出来るだけ人を罪に落さないようにする調子とは、何と言う違いでしょう。 「そんな事が出来るものですか、とんでもない」  万次郎もさすがに腹に据えかねた様子です。 「お前さんは、親旦那と仲が悪かった、——その上悪所通いの金にも詰っている」 「…………」 「親旦那が亡くなれば、この身代が自分の物になった上、馴染《なじみ》の神明芸者お染を入れても、誰も文句を言う人はない」 「えッ、黙らないか。岡っ引だからと思って聴いていると、何て事を言やがるんだ。この万次郎は、深川一番の不孝者だが、まだ親殺しをするほどの悪党じゃねえ」  気の勝った万次郎、昨夜の酒が激発したものか、思わず平次に喰ってかかります。 「万次郎さん、——お願いだから、そんなに腹を立てないで下さい。銭形の親分さんは、お上の御用で仰しゃるんじゃありませんか、——少し位は極りが悪くても、今朝も暁方《あけがた》に帰って来て、物置の梯子《はしご》から屋根へ飛び付き、格子を外して|そっ《ヽヽ》と入った事を話してしまった方がよくはありませんか」 「…………」  万次郎は黙ってお藤の方を見やりました。 「二階からは、お勝手にいる人達に顔を見られずに、風呂場へ入れません。——いつものように、旦那に小言を言われるのが嫌さに、暁方帰って来て屋根伝いに二階へ入った事さえ言ってしまえば、何でもないのに」  お藤に素破抜《すっぱぬ》かれると、万次郎はそれに抗《さか》らう気力もなく、がっくり首を落して、平次の前に二つ三つお辞儀をしました。 「どうも済みません、ツイ向っ腹を立てて、これが私の悪い癖で——」 「正直者は腹を立て易いよ、——お藤さんの言うのに間違いはあるまいね」 「ヘエ——」  平次はこう解ると、我意を得たりと言ったように莞爾《にっこり》とするのでした。 「冗談じゃないぜ、親分、殺し手がなくなった日にゃ、引込みがつかないじゃないか」 「八、俺にはよく解ったよ、これは自害でなきゃ鎌鼬《かまいたち》かも知れないよ」  平次はこんな事を言うのです。 「風呂場は外から鍵が掛っていたそうですよ親分、自殺した者がそんな芸当が出来るでしょうか」 「騒ぐな八、今によく解る。とにかく、若旦那の部屋を見せて貰いましょう、——それから後で、下女の何とか言うのと、お藤さんの荷物を見せて貰いましょう」  平次は立上がると、金六と八五郎と万次郎を従えるように、若旦那の部屋——裏二階へ登りました。灯を点けてみると、なるほど格子は楽に外せて、屋根からすぐに物置の梯子に足が届きます。雪駄に付いている泥が、屋根と梯子に付いていないのが不思議と言えば唯一つの不思議ですが—— 「金六兄哥——俺は若旦那の通った道を行って見て来る、兄哥は若旦那や八と一緒に、ここで待って貰いたいが——」 「宜いとも——」 「少し長くなるかも知れないが心配しないように頼むぜ」  平次は言い捨てて、屋根から梯子へ、それから静かに裏庭へ降り立ちました。  四方はすっかり暗くなって、お勝手の方からは竈《かまど》の灯がゆらゆらと見えるだけ、この騒ぎで、今晩は風呂も立たず、奉公人一同は、店の方に集まって小さくなっている様子です。     九 「ちッ」  お藤は思わず悲鳴を——いや悲鳴と言うよりは、もっと深刻な、小さな叫びをあげました。 「お藤さん、——焼く物はそれでみんなか」 「…………」  誰もいないお勝手、竈で書いたものを焼いていると、いきなり、後ろへ銭形平次が立っていたのです。二人の顔は近々と逢いました。お藤の顔は火のような怨《うらみ》に燃えましたが、平次の静かな瞳に見詰められると、その激しさが次第に解けて、いつの間にやら、赤ん坊のように泣きじゃくっていたのです。  涙に濡れた青白い頬、その平面《ひらおもて》をカッと竈の火が照して言いようもなく悩ましいのを、平次は手を挙げて招きました。 「こっちへ来るが宜い、——ここでは人に聴かれる」  お藤は立上がると、フラリとよろけましたが、やがて心を押し鎮めたものか、平次の後に従いました。  薄寒い二月の夜、月が町家の屋根の上から出かかって、四方は金粉《きんぷん》を撒いたような光が薫《くん》じます。 「お藤、——俺にはみな解っている、が、言わなければ本当にしないだろう。ここへ掛けて聴くが宜い、俺の話が済んだら、お前にも訊くことがある」 「…………」  お藤は黙って捨石の上に腰をおろしました。 「お前は風呂場へ入って行って、主人の万兵衛に我慢のならない事をされた。で、思わず側の箱から伝之助の剃刀を取上げて、万兵衛の頸筋を斬った、——お前はすぐ飛出した。まさか万兵衛が、あんな創《きず》で死ぬとは思わなかったろう——」 「いえ、——死んでくれれば宜いと思いました」  お藤は始めて口を開きました。 「よしよし、それならそれにしておこう、まもなく死体が見つけられると、お前は逃れるだけ逃れようと思った。——気が付くと後ろから斬った時、万兵衛がふり返ったので、お前の髪へ少しばかり返り血が掛った。あの騒ぎの中に、お前は髪を洗ったろう、お前の髪が濡《ぬ》れているので俺は気が付いたよ、が、お前はどう見ても悪人らしくはない」 「…………」 「俺はわざと、いろいろの人を疑った。伝之助が危くなるとお前はたまりかねて飛出して助けた」 「…………」 「番頭の文次が危なくなると、またじっとしてはいられなかった——お前は自分の罪を人に被《かぶ》せることの出来ない人間だ」 「…………」 「お直が疑われた時は、お前はお直と一緒に、裏口で四半刻も話していたと言った、が、あれは嘘だ、お直はやはり自分の部屋にいたが、俺に問い詰められると、誰も見ていた者がないので言い訳が出来なかった。あの女は賢くないから、お前が自分の疑われる時の用意に、裏口で二人話していたと言うと、喜んでそれに合槌を打った。お前はお直を救うと一緒に、自分も救う積りであんな細工をしたのだろう。大概の者は騙《だま》されるかも知れないが、そう言わせるように仕向けた俺は騙せない。お前の細工に合槌を打ったことは、お直の開け放しの顔を見ただけでも解る」 「…………」  恐ろしい平次の明智に打ちひしがれて、浅墓《あさはか》な細工をした自分が恥かしくなったのでしょう。お藤は黙って首を垂れました。美しい月の最初の光が、この血に染んだ処女《おとめ》を、世にも浄らかな姿に照し出しております。 「お前は裏口に四半刻もいたと言ったくせに、文治が店から動かないのを見たと言った。裏口から店は見えないはずだ。それから伝之助が蔵へ行っているのを見たと言った。それも嘘だ。裏口からは藏の戸前が見えない、風呂場からはよく見えるが——」 「…………」 「若旦那の万次郎も、親殺しの疑いを言い解く道がなくなるとお前は助け舟を出した。万次郎が時々父親の目を盗んで屋根から入るのを知って今朝も屋根から入った、——風呂場の前は通らないからと言った、が、それは嘘だ。昨夜の雨で雪駄の裏はひどく泥《どろ》がついているが、梯子にも屋根にも泥はない。今朝に限って万次郎は店から入っている」 「…………」 「お前が万兵衛を殺したのは何のためかわからない、が、多分貧乏で名高いお前の父親が、若いときの友達だった万兵衛に、金の事で苦しめられているのだろう。——お前の荷物を調べると言ったのは、何か証拠が欲しかったのだ。いや、——お前の証拠を隠すところを見たかったのだ」 「…………」 「竈で焼いたのは何だ」 「…………」 「借金の証文か」 「いえ」  お藤は観念しきった顔を上げました。     十 「何だ、言ってくれぬか」  と平次。 「親分さん、私を縛《しば》って下さい。私は親の敵を討ったのですが、——人一人殺して助かろうとは思いません」  お藤は静かに立上がると、自分の手を後ろに廻して、平次の側へ寄ったのです。 「親の敵?」 「母の敵——、あの万兵衛は鬼とも蛇とも言いようのない男でした。父と幼《おさな》友達なのに、父が江戸一番の蒔絵師と言われ、後の世まで名が残るほどの仕事をしているのを嫉《ねた》み、自分はこんなに身上が出来ているのに、長い長い間|企《たく》らんで、父をひどい目に逢わせました」 「…………」 「要らないと言うお金をうんと貸して、十年も放っておいた上、利息に利息を付け、とても払えそうもない額《たか》を、三四年前になって不意に払えと言い出したのです」 「なるほど」 「万兵衛は、父と若いとき張合った母を横取りするのが目当てでした。私の口からは申されませんが、三年前、母は万兵衛の罠《わな》に落ちて、とうとう自殺してしまいました」 「…………」 「それにも懲《こ》りずに、こんどは私を奉公によこせと言う難題です。——証文が入ってるので、父にもどうにもならず、去年の暮れからこの家へ行儀見習いという名目で来ておりますが、万兵衛は間がな隙がな、私を——」 「よし、解った。手籠めにされそうになって、ツイ剃刀で斬ったのだろう」 「いえ敵を討ちたい心持で一パイでした」 「焼いたのは証文か」 「え、——それから母の手紙」 「…………」 「親分さん、私を縛って下さい」  お藤はもう泣いてはいませんでした。観念の顔を挙げると月がその美玉の清らかさを照して、平次の眼にも神々しくさえ見えます。 「俺には縛れない、——俺が黙っていさえすれば、これは江戸中の御用聞が来て洗い立てても解る道理はない。——宜いか、お藤、俺の言う事を聴くのだぞ。こんな家に一刻もいてはならぬ。子分の八五郎に送らせるから、この足ですぐ父親のところへ帰れ。御用聞|冥利《みょうり》に、お前を助けてやる」 「…………」 「それから、誰にも言うな、この平次は御用聞だが、親の敵を討った孝行者を縛る縄は持っていない。宜いか、お藤」 「親分さん」  平次に肩を叩かれて、お藤は身も浮くばかりに泣いておりました。そのわななく洗い髪を照して、何と言う美しい春の月でしょう。  八五郎にお藤を送らせ、金六には別れを告げて、平次は八丁堀の役宅に、与力笹野新三郎を訪ねました。 「どうだ、平次、下手人は解ったか」  笹野新三郎は、この秘蔵の御用聞の手柄《てがら》を期待している様子です。 「平次一代の不覚、——下手人は挙りません。お詫《わび》の印、十手|捕縄《とりなわ》を返上いたします」  平次はそう言って、懐中から出した銀磨の十手と、一括《ひとふり》の捕縄を笹野新三郎の前に差出しました。 「また何か縮尻《しくじり》をやったのか、仕様のない男だ——まア宜い、奉行所の方は、鎌鼬《かまいたち》にしておこう」 「鎌鼬は剃刀を使いません」 「それでは自害か——自害に下手人のあるはずはない、十手捕縄の返上は筋が立たぬぞ」 「ヘエ——」 「ハッ、ハッ、ハッ、困った男だ」  笹野新三郎は笑いながら背《そびら》を見せました。昔の捕物にはこう言った馬鹿な味があったものです。 「親分、あの娘はたいした代物《しろもの》だね。あんなのは滅多にねえ、——何だか知らないが父親と手を取り合って泣いていたぜ」  尾張町から帰って来たガラッ八、八丁堀の役宅門前で平次に逢ったのです。  玉の輿《こし》の呪     一 「あッ、ヒ、人殺しッ」  宵闇を劈《つんざ》く若い女の声は、雑司《ぞうし》ガ谷《や》の静まり返った空気を、一瞬、煮えこぼれるほど掻《か》き立てました。 「それッ」  鬼子母神《きしもじん》の境内から、百姓地まで溢れた、茶店と、田楽屋《でんがくや》と、駄菓子屋と、お土産屋は、一遍に叩き割られたように戸が開いて、声をしるべに、人礫《ひとつぶて》が八方に飛びます。 「お吉じゃないか」  誰かが、路地の口に、ガタガタ顫《ふる》えている娘の姿を見つけました。 「お菊さんが、お菊さんが——」  お吉の指す方、ドブ板の上には、向う側の家の戸口から射す灯《あかり》を浴びて、紅《あけ》に染んだ、もう一人の娘が倒れているではありませんか。 「あッ、お菊」  人垣は物の崩《くず》れるように、ゾロゾロと倒れているお菊の方に移りましたが、蘇芳《すおう》を浴びた虫のように蠢《うご》めく断末魔《だんまつま》の娘をどうしようもありません。 「お菊、どうしたんだ」  弥次馬を掻き分けて飛込んで来たのは、落合の徳松というノラクラ者、いきなり血潮の中から、お菊を抱き上げます。  が、お菊はもう虫の息でした。半面|紅《あけ》に染んだ顔は、恐ろしい苦痛に引吊って、カッと見開いた眼には次第に死の影が拡がるのです。 「お菊ッ、——だから言わない事じゃない、罰《ばち》が当ったんだ」  徳松は死に行くお菊の顔を憎悪とも、懐かしさとも、言いようのない複雑な眼で見据えましたが、やがて自分の腕の中に、がっくり|こと切《ヽヽヽ》れる娘の最期を見届けると、 「お菊ッ」  激情に押し流されたように、自分の濡れた頬を、娘の蒼ざめた頬にすりつけるのです。 「あッ、何ということをするんだえ、畜生ッ」  転げるように飛込んで来たのは、五十年配の女——お菊の母親のお楽でした。いきなり徳松を突き飛ばすと、その膝の上から、娘のお菊をむしり取ります。 「おっ母《か》ア、お菊は大変だぜ」  わずかに反抗する徳松。 「お前がやったんだろう。畜生ッ、どうするか見やがれ」  戦闘的な母親は、お菊が死んだとは気がつかなかったものか、相手の男を憎む心で一パイです。 「違うよ、俺じゃねえ」 「あッ、お菊、しっかりしておくれ、おっ母アだよ、お菊ッ」 「…………」 「お菊、お菊ッ、死んじゃいけないよ。お菊、明日という日を、あんなに楽しみにしていたじゃないか」 「…………」 「お菊」  母親のお楽は、自分の腕のなかに、一と塊《かたまり》の襤褸切《ぼろき》れのように崩折れるお菊を揺ぶりながら、全身に血潮を浴びて、半狂乱に叫び立てるのでした。 「おっ母ア、驚くのは無理もねえが、——お菊坊がこんなになったのは、おっ母アのせいもあるんだぜ」  徳松はまだそこに居たのです。灯先《あかりさき》にヌッと出した顔は——身体は——、顎《あご》から襟へ腕へ——膝へかけて、飛び散る碧血《へきけつ》を浴びて、白地の浴衣《ゆかた》を着ているだけに、その凄まじさというものはありません。 「まだウロウロしているのかい、——お菊を殺したのはお前だろう」  猛然と振り仰ぐお楽。 「違うよ、俺じゃねえ、大名なんかへやる気になったから、魔がさしたんだよ」 「何を、——お菊はな、お前のような肥桶臭《こえおけくさ》い小博奕打《こばくちうち》の相手になる娘《こ》じゃない。弾ね飛ばされたのが口惜しくて、こんな虐《むご》たらしい事をしやがったろう」 「違うよ、おっ母ア」 「覚えていやがれ、そのガン首をお処刑台《しおきだい》の上に晒《さら》してやるから」  そう言ううちにもお楽は、お菊の死骸をかき上げかき上げ、赤ん坊でもあやすように、血潮に濡れた肩から、頸筋へ、額にかかる黒髪のあたりへと、際限もない愛撫《あいぶ》を続けるのでした。     二  話は十日程前に遡《さかのぼ》ります。  雑司ガ谷の鬼子母神様門外、大榎《おおえのき》の並木の蔭に並んだ茶店は、そのころ江戸の町内にもない繁昌をみせたものでした。  一つは大奥始め、諸家の女中、町人の女房たちの信仰を集めた鬼子母神の御利益《ごりやく》と、もう一つは、鷹野《たかの》、野駆《のが》け、遠乗りに頃合なので、代々の将軍始め、大名、旗本、諸家の留守居、若侍たちに、一番人気のあった遊び場所でもあったのです。  上総国《かずさのくに》勝浦一万一千石の領主、植村土佐守は、若くて寛達で、猟と女と遠乗りが何より好きという殿様でした。家来のうちでも、世故《せこ》に長《た》けた柴田文内と、若くて腕のできる吉住求馬《よしずみもとめ》は、お気に入りの筆頭で、その日も土佐守の遠乗りのお供をして、呉服橋の上屋敷から、一気に目白へのし、帰りは鬼子母神のお楽の茶店へ寄って、持参の割籠《わりご》を開いてきたのです。  大名は滅多に他所《よそ》で煮焚《にた》きした物を食べません。茶店から貰ったのは、熱い湯と、生みたての鶏卵《たまご》だけ。 「お楽、——今日は御微行《おしのび》だから、何も御修業だと仰しゃる。地酒を一|献《こん》差上げてはどうじゃ」  柴田文内は、顔見知りのお楽へ、こんな事をねだりました。 「ヘエ——」  お楽は恐る恐る樽《たる》の呑口を捻《ひね》って、地酒といっても自慢のを一本、銅壺《どうこ》へ放り込んで、さっそくの燗《かん》をすると、盆へ猪口《ちょく》を添えて、白痴《こけ》がお神楽《かぐら》の真似をする恰好で持って出ます。 「気がきかないお楽だな。お前のところには、お浅《あさ》とかいう娘があったはずではないか。酌《しゃく》も大事なおもてなしだ、平常着《ふだんぎ》のままで構わぬ、出せ出せ」  柴田文内は、主君土佐守のニコニコする顔を見ながら、身分柄にも似ぬぞんざいな口をききます。  もっとも、植村土佐守はこんな事が好きで好きでたまらなかったのです。 「浅はこの春|亡《な》くなりましたよ、旦那様」  お楽は恐る恐る坐り込みました。 「ホウ、それは愁傷《しゅうしょう》であったな。——が、此店《ここ》へ入ったとき、綺麗な娘が居たように思うが——あれは誰だ」 「浅の妹の菊でございます」 「その菊で宜い、ここへ呼んでくれ。酌を申付ける。姉の浅よりも一段のきりょうじゃな」 「ヘエ——」  土佐守はもう盃を持っております。お菊は着換えをする暇《ひま》もなく、ほんの心持化粧崩れを直して土佐守の前へ押出されたのです。 「…………」  黙ってお辞儀をして、これだけが看板の大きな島田|髷《まげ》を傾《かし》げるように白い顔をそっとあげました。妙に人馴れた眼、少し綻《ほころ》びた唇、クネクネと肩で梶《かじ》を取って、ニッと微笑したお菊は、椎茸髱《しいたけたぼ》と、古文真宝《こぶんしんぽう》な顔を見馴れた土佐守の眼には、おどろくべき魅力でした。  赤前垂は外《はず》しましたが、貧しい木綿物の単衣も、素足の可愛らしい踝《くるぶし》も、人をおそれぬ野性的な眼差《まなざし》も、お大名の土佐守には、まったく美の新領土です。  奥方は今を時めく老中、酒井佐衛門尉《さかいさえもんのじょう》の息女で、一も二もなく権門《けんもん》の威勢に押されている土佐守が、こんな野蛮で下品で、そのくせ滅法可愛らしい娘を、見たことも想像したこともありません。 「もっと近う参れ、盃を取らせるぞ」  そんな事を言った時は、二本目の銚子《ちょうし》が用意されて居りました。  翌る日、柴田文内と吉住求馬は、支度金三百両を持って、お楽の茶店に乗込んで来たのに何の不思議があるでしょう。上屋敷に光っている奥方に憚《はばか》って、名儀は本所|閻魔堂《えんまどう》前の下屋敷召使、十日目には駕籠で迎えに来るということまで取決めに来たのです。  お楽と、お楽の後添《のちぞい》、——死んだお浅とお菊には継父《けいふ》に当る弥助——の喜びはいうまでもありません。お菊は大名の妾と聞いて、最初は二の足を踏みましたが、上屋敷の奥方付と違って、下屋敷に召使格でいる分には、物見遊山も芝居見物も勝手と言い聞かされて、たちまち乗気になりました。  その上、土佐守はなかなかの美男で、表向お楽夫婦と親子の縁は切るが、内々は逢っても貢《みつ》いでも、一向構わぬという条件で、話はトントン拍子に運んでしまったのです。  柴田、吉住両士は帰りました。が、後で考えると、そう簡単には玉の輿に乗れそうもありません。お菊には去年の秋から、落合の徳松という、悪い虫が付いて居たのです。  徳松は落合村の百姓の子で、素姓の悪くない男ですが、友達にやくざが多かったので、いつの間にやら、その道に深入りし、親許は久離《きゅうり》切られて、一かど兄哥《あにい》で暮して居りました。お菊が背を見せたとなれば、匕首《あいくち》くらいは振り廻すはずですが、相手が大名と聞くと、威張り甲斐も暴れ甲斐もありません。仲に入る人があって、手切れが三十両、女から男へやって、これは無事に話がつきました。  それから九日、化粧と支度に大騒動をして、明日はいよいよ大名屋敷に乗込もうという前の晩——。  継父弥助の連れ(娘娘《ここ》で、歳はお菊より二つ上の二十歳《はたち》ですが、跛足《びっこ》で不きりょうで、余り店へも出さないようにしているお吉と一緒に銭湯へ行って、途中まで帰って来たところを、——お吉が湯屋へ手拭いを忘れて、それを取りに戻った間に、無慙《むざん》、喉笛を掻き切られて死んでいたのです。     三  土地の御用聞、三《み》つ股《また》の源吉が、子分の安と一緒に飛んで来たのは、それから煙草三服ほどの後でした。 「何? お菊が殺された?——退《ど》け退《ど》け、邪魔だ」  源吉の塩辛《しおから》声を聞くと、お菊の死骸に蝿《はえ》のように群がった弥次馬は、一ぺんにパッと飛散ります。 「徳松、——手前《てめえ》は、逃げちゃならねえ」  うろうろする徳松は、源吉にグイと袖を押えられました。 「親分、あっしは知りませんよ」 「何を、誰が手前が下手人だと言った」 「ヘエ——」 「変な野郎じゃないか、あッ血ッ」  徳松の顎《あご》から下は、手も胸も、着物も斑々《はんはん》たる血潮に染んでいることに、源吉は気がついたのです。 「お菊の死骸を抱き上げた時、こんなに付きましたよ」 「何?——お菊の死骸を抱き上げた時付いた血だ? 嘘を吐《つ》きやがれ、殺す時ついた返り血を誤魔化《ごまか》せねえから、多勢の前でお菊の死骸を抱き上げて、血染の上塗《うわぬり》をしたんだろう。そんな手を喰うものか」 「親分」 「誰か、この野郎がお菊の死骸を抱き上げる前に、着物にも血のついていないのを見届けた証人でもあるのかい」  源吉はそう言いながら四方を見廻します。『血の付いて居るのを見たか』と言わずに、『血の付いていなかったのを見届けた証人はないか』と言ったところに、弥次馬心理を掴んだ源吉の働きがあったのです。こういえば、白洲《しらす》の砂利《じゃり》を掴んでまでも、徳松の無実を言い立てようという、勇気のある篤志家《とくしか》は容易に出ないでしょう。 「親分、そいつは無理だ。あっしは何にも知らねえ」 「えッ、手前が知らなくたって、俺が知って居りゃ沢山だ。——お菊を追い廻したのは、手前の外にはねえ。落合の兄哥に遠慮して、土地の若い男は、門並御遠慮申上げて居るんだ。お菊に惚れただけの男なら、一束や二束はあるが、お菊を手に入れたのは手前だけよ。そのお菊が大名屋敷に奉公すると聞いて、指を啣《くわ》えて引込む手前じゃあるめえ」 「親分」 「うるせえ野郎だ。安、縛ってしまえ。顎を叩きたきゃ、お白洲で存分にやるがいい」 「大丈夫ですか、親分」  子分の安が躊躇《ちゅうちょ》するのを、三つ股の源吉は叱り飛ばすように縄を掛けてしまいました。 「親分さん、娘を殺したのは、その男に間違いありません。どうぞ、敵《かたき》を討って下さい、お願い申します」  お楽は娘の死骸を抱いたまま、繁く降る涙の顔を挙げました。 「お母さん、お菊さんを家へ運んで行きましょうよ」  弥次馬と源吉の眼に射竦《いすく》められて居たお吉は、この時ようやく声を掛けました。 「おや? まだそこに居たのかい、お前は」 「え」 「お菊がこんな姿になって、——お前は、まさか嬉しいんじゃあるまいね」 「まア、おっ母さん」  お吉はあわてました。継母《けいぼ》の舌の動きが、あまりにも辛辣《しんらつ》だったのです。 「手伝っておくれ、——噛みついちゃ悪いから、お前は足の方を持つがいい」 「…………」  黙って死骸の足を持上げるお吉。わけもない涙が、この時ドッとこみ上げます。 「でも、やはり泣いてくれるんだね」  自分の言った皮肉のためとは、顛倒《てんとう》したお楽には気がつかなかったのでしょう。  多勢の弥次馬は、この時ようやく気がついたように、母娘《おやこ》二人に手を貸して、死骸をあまり遠くないお楽の茶店に担《かつ》ぎ込みました。  後に残ったのは、三つ股の源吉と、子分の安の二人だけ。もっとも安の手には、落合の徳松の縄尻が捕まれて居ります。 「おや、剃刀《かみそり》じゃないか」  血潮の中から、源吉は平べったいものを拾い上げました。 「よく使い込んだ剃刀ですね、親分」  子分の安は片手の提灯をかかげました。 「いいものが手に入った。安、引揚げようか」 「ヘエ——」  源吉はその剃刀を、徳松の物と決め込んでいる様子です。     四  翌る朝、植村土佐守家来、柴田文内と吉住求馬、女乗物を用意して、お楽の茶店の裏口へ、着けました。 「おかしいぞ。簾《すだれ》が下って、忌中《きちゅう》の札が出て、中から線香の匂いだ。誰が死んだのだろう?」  柴田文内、鼻をヒクヒクさして居ります。 「左様——、主人かな」  吉住求馬《よしずみもとめ》にも合点が行きません。  折角玉の輿に乗りかけたお菊が、昨夜のうちに、非業の最期を遂げたことは、固《もと》より知る由もなかったのでしょう。  お楽弥助夫妻も、あまりの事に顛倒して、今日植村家の迎えが来るとは知っていながら、ツイ使いの者を走らせて、それを止めることまでは考え及ばなかったのです。 「あ、柴田の旦那様、娘は、娘はとうとう殺されてしまいました」  お楽は真っ先に飛んで出ました。 「使いを差上げるはずでしたが、このとおりの取込みで、何とも相済みません」  亭主の弥助は、額を叩いて追従《ついしょう》らしく深々とお辞儀をして居ります。 「それは気の毒、誰がいったいお菊を殺したのだ」  柴田文内、仰天しながらも好奇の眼を光らせます。 「娘をつけ廻していた、徳松という野郎でございます。——昨夜のうちに縛られて行きましたが——」 「フーム、そう申上げたら、殿にはさぞ御|落胆《らくたん》遊ばすことであろうが、余儀ないことだ。——あんまり力を落すではないぞ、お楽」 「ハイ」  お楽は見事な女乗物を眺めながら、顔も挙げられないほど泣いて居りました。これに乗るはずだった娘が、昨夜の血潮も洗い浄《きよ》めず、逆さ屏風《びょうぶ》の裡に冷たく横たわっているのです。 「では、帰るとしようか、吉住氏」 「ここへ来合せたのも、何かの因縁だろう。せめて線香でも上げて行こうか、柴田氏」  吉住求馬は、若いのに似気なく気が廻ります。 「なるほどもっとも、年上の拙者が、それに気がつかないとは迂闊《うかつ》千万」  柴田文内はそんな事を言いながら中へ入りました。つづく吉住求馬。  二人並んで、心静かに拝んでいると、なにやら急に家の中が騒ぎ出します。  やがて騒ぎが鎮まると、バタバタと入って来たお楽、お菊の遺骸の前へヘタヘタと坐ると、何やら、訳のわからぬ事をブツブツいいながら滅茶苦茶に線香を立てております。 「何だ、お楽」 「土地の御用聞——三つ股の源吉という親分ですよ」 「何しに来た」 「お吉を縛って行くんだそうで——」 「お吉?」 「亭主《やど》の連れ娘《こ》で私には継《まま》しい仲ですよ。片輪者のくせに妬《ねた》み根性が強いから、お菊くらいは殺し兼ねません」  お楽はこういううちにも、お吉に対する憎悪の燃え上がってくるのを、どうすることも出来ない様子です。 「そんな事はあるまい。下手人は徳松とやらいう男で、昨夜《ゆうべ》のうちに捕まったというではないか」  口数の少い吉住求馬はこう追及します。 「二人でやったかも知れませんよ」 「何?」 「どうかしたら、お吉一人の仕業かも知れないじゃありませんか。——お菊の姉のお浅がこの春死んだのも、お吉の拵《こしら》えた玉子焼に中《あ》てられたからで——何だって私はあの時気が付かなかったでしょう。玉の輿に乗る前の晩、あの化物娘と一緒に外へ出すなんて——」  お楽はキリキリと歯を鳴らします。継娘《ままっこ》にお菊を殺されたと思い込むと、矢も楯《たて》もたまらぬ憎悪に、煮えくり返るような心持だったのでしょう。  柴田文内と吉住求馬は、そこそこに外へ出ました。半狂乱の母親を相手に、呪《のろ》いと恨《うらみ》の数々を聞かされるのは、とても我慢が出来ません。  外へ出ると、三つ股の源吉と子分の安は、弥助の連れ娘《こ》お吉を縛り上げて、弥助の驚きと嘆きを他所《よそ》に、ここを引揚げるところです。 「源吉とか申したな」 「ヘエ——、柴田様と吉住様で、飛んだことでございましたな」  源吉の片頬には、ニヤリと皮肉な笑いが動きましたが、あわてて、揉みほぐすように、その頬へ手を当てました。 「その娘に疑いが懸《かか》ったのか」  と、吉住求馬、若い義憤らしいものが燃えたのでしょう。少しせき込んだ調子です。 「ヘエ——、昨夜一緒に風呂へ行ったのはこの娘で、——手拭いを忘れて湯屋へ戻ったといいますが、番台で訊くと、戻らなかったといいますよ」 「戻りましたよ。湯屋の前まで行って、暖簾《のれん》を潜《くぐ》ろうとすると、私の手拭いは入口のドブ板の上に落ちていたんです」  お吉は躍起《やっき》と抗弁しました。お菊より二つ年上ですが、跛足《びっこ》のせいか小柄で、お浅お菊姉妹には比べられないにしても、お楽が化物娘というほど醜《みにく》くはありません。  自分のきりょうに自信のないお吉の、素顔のままの質素な様子が、人によってはかえってお菊の派手好みなのより良いという人があるでしょう。現に吉住求馬も、キリキリと縛り上げられて、訴えようのない眼——泣き濡れた頬、いじらしくも歪《ゆが》む唇などを見ると、助けられるものなら助けてやりたいといった、やるせない心持になるのを、どうする事も出来なかったのです。 「ドブ板に落ちていた手拭いは、こんなに綺麗じゃないか」  源吉は生湿《なまじめ》りの手拭いをお吉の眼の前にヒラヒラさせました。 「家へ帰ってから洗ったんです」  こういうお吉の言葉は、勝ち誇る源吉を動かしそうもありません。 「徳松はどうした」  と柴田文内。 「まだ番所に留めてありますよ。——あの騒ぎのときは、筋向うの碇床《いかりどこ》に居たんだ、と言い張りますが、誰も覚えちゃ居りません。——それに、お菊を殺した剃刀は、碇床の格子先からなくなった品だそうで——」 「すると、殺されたのは一人で、殺したのは二人か」  吉住求馬の調子は皮肉ですが、 「徳松か、お吉か、どっちかですよ、旦那」  源吉は求馬の抗議も一向通じないような顔をして居ります。     五  それから一刻あまり、葬式《とむらい》の手順もつかずに居る中から抜出して、亭主の弥助は番所にいる見廻り同心に訴え出ました。 「お菊を、殺したのは、この弥助に相違ございません。——いつもお菊やお浅に苛《いじ》められて、小さくなっている、片輪のお吉が可哀そうで、ツイあんな大それた事をしてしまいました」  というのです。 「馬鹿な事をいえッ。お前は、娘のお吉を助けたさに、罪を背負って死ぬ気だろう」  と、いきり立つ源吉。 「親分、よく近所の衆から、聞いて下さい。お吉がどんな心掛のいい娘で、今まで二人の妹の無理を聞いていたか、よく解りましょう」 「…………」 「そのお菊が、大名に見染められて下屋敷に上がることになってからというものは、人を人臭いとも思わぬのさばり様で、さすがの私も見るに見兼ねました。あの晩私も銭湯へ行った帰り、フト見ると路地の中にお菊がたった一人立って居るじゃございませんか。お吉に疑いがかかるとは夢知らず、碇床の格子先から剃刀を取って、一と思いにお菊の阿魔《あま》を殺しました」 「それは本当か、弥助」  次第に通る訴《うったえ》の筋を、三つ股の源吉も、見廻り同心も、無視するわけには行きません。その場で縄を打たれて、お菊殺しの下手人は、これで三人になったのです。  父親の弥助が自訴《じそ》して出たと聞くと、お吉は今まで否定し続けた態度を一変して、 「お菊さんはこの私が殺しました。——父さんは何にも知りやしません。銭湯へ行ったのは本当ですが、私達より一と足先に家へ帰ったはずです。私を助けるために、そんな事を言い出したのでしょう」  急にこんな事を言い張ります。  こうなるとどれが本当の下手人か判らず、そうかといって、三人の縄付《なわつき》を奉行所へ送るのは、三つ股の源吉始め、行がかりで立会った見廻り同心の顔にもかかわるわけで、しばらくは目白の番所に留め置いたまま、一と晩念入りに調べ抜くことになったのでした。  その晩——  事件はとうとう、神田の平次へ持込まれました。 「平次殿に逢いたい。拙者は植村土佐守家来、吉住求馬《よしずみもとめ》と申す者だが——」  変な事からこの渦中に巻込まれた吉住求馬は、思案に余った顔を、銭形平次のところへ持って行ったのでした。 「ヘエ、私は平次で、——どんな御用でございましょう」  慇懃《いんぎん》に迎え入れた平次に、吉住求馬は、事件の顛末《てんまつ》を細々《こまごま》と物語りました。 「こんなわけだ。騒ぎが大きくなれば、自然主君の御名前にも拘《かか》わる。それに、奥方御里方、酒井佐衛門様への聞えも如何、——早急に片付ける工夫はないものか」 「…………」 「もう一つ。三人のうち二人、あるいは三人とも無実であろう。父親が娘を庇《かば》い、娘が父親を庇う心根がいかにも不憫《ふびん》、助けられるものなら助けてやりたい、曲《ま》げて力を貸してはくれまいか」  純情家らしい青年武士が、畳へ手を付かぬばかりにいうのを、銭形平次はじっと聴いておりました。 「縄張り違いは、私共の仲間で|うるさい《ヽヽヽヽ》事になっておりますが、御言葉の様子では、よほど深い仔細《しさい》がおありのように存じます。八丁堀の旦那方の御言葉を頂いて、明日にもきっと雑司《ぞうし》ガ谷《や》へまいりましょう」 「乗出してくれるか、平次」 「ヘエ」 「礼を言うぞ」  吉住求馬は、主君大事と思い込んでいるのでしょう、平次が引受けると、思わずホッと胸を撫で下ろしました。     六  翌る日の朝、与力笹野新三郎の言葉を頂いて、平次は雑司ガ谷に乗込みました。 「銭形の兄哥、このとおりだ。種も仕掛けもねえ、が、三人が三人とも、下手人の疑いがあるから、どれを奉行所へ送りようもねえ」  三つ股の源吉は、イヤな顔をしながらも十手の義理で、八丁堀のお声掛りで来た平次に、一切のことを話しました。 「有難う、それで大概判ったようだ。なるほど三つ股の兄哥が三人縛ったのも無理はない。俺だって、そのうち一人だけ縄を解く気にはなるまいよ」 「そう言えば、そのとおりだが——」  源吉はいくらか心持が解けた様子で、苦い笑いを漏《も》らします。 「一と通り見せて貰おうか、何も後学のためだ」 「それじゃ、現場から——」 「八、手前《てめえ》も一緒に来るがいい」  平次とガラッ八の八五郎は、三つ股の源吉に案内されて、お菊の殺された湯屋の路地へ入りました。  一方は五尺ばかりの生垣《いけがき》、一方は黒板塀を前にした下水で、ドブ板の上は、血汐を洗って、一昨夜《そのよ》の跡もありませんが、源吉に死骸の位置を、細々《こまごま》と説明させた上、平次はそこから湯屋の入口まで歩いて見ます。距離はほんの二三十間ですが、一ヵ所生垣が出張っているので、見通しはつきません。 「お菊が声を立てさえすれば、湯屋の入口にいたお吉に聞えたはずだね」  と平次。 「だから、殺したのは、お菊をよく知っている者の仕業《しわざ》だ。流しの剽盗《おいはぎ》や、あまり口をきいた事もないような人間のしたことじゃねえ」 「そのとおりだ。——が、別れ話がついて、他人になったはずの徳松が、未練らしくここで絡《から》み付いたとしたら——手に刃物なんか持って居るのを、お菊はおとなしく応対するだろうか」  平次の観察は、もう源吉の思い及ばなかったところまで飛躍します。 「すると、徳松は——」  ガラッ八は長い顔を出した。 「お前は黙って居ろ」 「ヘエ——」  湯屋の前、お吉が手拭いを落したというあたりには、固より証拠などの残っているはずもありません。 「碇床《いかりどこ》へ行ってみようか」  三人は元の道を取って返して、兇行のあった場所から、十間とも離れていない、碇床の店先に立ちました。 「剃刀はここに置いてあったのか」  平次は、油障子に大きな碇を描いた入口の隣——砥石《といし》や鬢付油《びんつけあぶら》や鋏《はさみ》を並べた格子を指しました。 「これは、親分さん方、御苦労様で——」  碇床の親方は、少し頓狂な声を出します。 「格子の障子は開けて置くのかい、親方」  と平次。 「ヘエ、この暑さですから、閉め切っちゃ仕事が出来ません、——お蔭で飛んだ迷惑をしましたよ」 「剃刀を持って行くのが見えないだろうか」 「見張って居なきゃ、ちょいと気がつきませんよ、親分」  親方の言うのは恐らく本当でしょう。 「あの晩、徳松がここにいたそうだが」 「将棋《しょうぎ》の相手がありますから、三日のうち一日はここで暮します。あの騒ぎの時も、ここにいたように思いますが、お菊さんとお吉さんが銭湯へ行く姿を見ると、急にソワソワしてどこかへ出かけたようで——」  親方の言うのが本当だとすると、徳松は少し不利益になります。 「それを、俺も徳松に訊いたんだ。すると、あの野郎は、お吉と一緒だから、この辺で顔を見せて、声でも立てられるとうるさいと思い、お菊の家の前で待って居た——と、こう言うのだよ」  源吉は引取って説明します。 「撚《より》を戻すつもりだったのかな」  と平次。 「いや、もういちど逢って、名残が惜《お》しみたかったというよ。どうせ心変りのしたお菊だし、明日玉の輿に乗ると決って居るから、何を言っても無駄だと諦《あきら》めて居た——ともいうが」 「それが本音かも知れないな、こんどはお菊の家へ行ってみようか」  平次は、こう、静かに段落をつけました。     七  お菊が殺され、お吉が縛られ、弥助は自訴して出た、残るはお楽一人だけ。近所の衆や、親類の者が来て、今日の葬式の支度だけは急いでおりますが、悲劇の家は、何となく落莫《らくばく》として、身に沁みるような淋しさがあります。 「銭形の親分さん、——早く娘の敵を討って下さい。いくらお吉が可愛いからって、お菊の葬式も済まないのに、うちの人まで自訴なんかして」  勝気らしいお楽も、すっかり気が挫《くじ》けたものか、評判の銭形平次が乗出したと聞くと、その袖《そで》に縋《すが》り付いて、サメザメと泣くのです。 「心配することはないよ、下手人は今日明日中に判るだろうから」 「本当でしょうか、親分さん」 「判ったところで、どうにもならないかも知れないが、ともかく、落着いて居るがいい——そういったところで、娘二人に死なれちゃ、落着いても居られまいが」  平次の眼には、深い哀憐《あいれん》が動きました。 「有難うございます、親分さん」  これが岡っ引手先の口から聞く言葉でしょうか。お楽はツイ恥も忘れて、声を立てて泣きます。 「大急ぎで来て間に合ったのが何よりだ。お菊の死顔を見せて貰おうか」 「ハイ」  お楽はようやく涙をおさめて、三人を奥へ案内しました。幸い入棺《にゅうかん》したばかり、白布を取って蓋《ふた》を払うと、早桶の中に、洗い淨《きよ》められたお菊の死骸が、深々とうずくまって居ります。  静かに顔を起してやると、左顎《ひだりあご》の下へパクリと開いたのは、凄まじい斬り傷、蝋《ろう》のような顔に、昨日の艶色はありませんが、黒髪もそのまま、経帷子《きょうかたびら》も不気味でなく、さすがに美女の死顔の美しさは人を打ちます。 「フーム」 「銭形の兄哥《あにき》、どうだい」  と源吉。 「刃物が違う」 「えッ」 「剃刀には峰があるから、こう深くは切れない」 「いや、肉がはぜているぜ」  源吉は敢然としました。 「刃が厚いからだ」  平次も下《さが》りません。  続いて、その晩着ていた、お吉と弥助の着物を出させましたが、どっちにも血の飛沫《しぶ》いた跡もなく、洗った跡もないのです。 「綺麗だな」  独り言のように平次。 「血が付かないわけだ。剃刀を逆手《さかて》に握って、後ろから引っ掻くように切ったんだ」  源吉は手真似をして見せました。お菊の後ろから近づいて、何か声をかけながら、咄嗟《とっさ》に剃刀を喉へ廻し、肩を押えてやった——と見たのでしょう。 「逆手に持って肩を押えながら切った剃刀なら、傷は上向きに引かれるはずだ、——これは刃物の入ったところから下向きに引かれているぜ」  平次の推理は仮借《かしゃく》もありません。 「が——」 「前から切ったのだぜ。三つ股の兄哥、剃刀じゃない。脇差《わきざし》で前から切るとこうなる」  平次は手真似をして見せました。 「前から脇差で切られるのを、声も立てずに待って居たのかい」  と源吉。 「知ってる人だ、——お菊のよく知って居る人だった。眼の前へ来るまで自分が斬られるとは思わなかった——」 「それにしても脇差を抜くのを黙って見て居たというのかい」  源吉はなかなか承知しません。 「…………」  平次は何か言いかけましたが、聞いて居る者が多いのに気がついたか、そのまま口を噤《つぐ》んでしまいます。 「親分さん、下手人はやはり、あの徳松の野郎でしょうか」  お楽は顔を挙げました。 「いや解らぬ、三人に逢って訊いてみなきゃ」  平次と八五郎と源吉は、目白の番所へ引揚げました。     八  そこへ行くと、三人の縄付に逢う前に、平次は、剃刀と手拭いを見せて貰います。  剃刀はありふれた床屋使いの品、柄《え》のところに籐《とう》を巻いて、磨《と》ぎ減らしてありますが、なかなかよく切れるそうです。 「これが、お吉の手拭いか」  次に取上げた手拭いは、何の変哲《へんてつ》もない中古《ちゅうぶる》の品で、よく乾いてしまって、泥も砂もついてはおりません。 「湯屋の前で落したというが、砂も泥もついては居ない——もっとも、お吉は帰って来てすぐ洗ったといってるが」  と源吉。 「なるほど」  平次はそれっ切り手拭いを返して、番所の中へ入りました。中には、徳松と、お吉と、弥助が、縄も解かず、役所にも送られず、三人の手先が付添って、黙りこくって怯《おび》えております。 「徳松」 「…………」  平次は凝《じ》っと若い男の顔に見入りました。精々二十五六でしょう。身を持ち崩してはおりますが、百姓の子らしい堅実さのどこかに残る様子も、決して人を不愉快にさせるような男ではありません。 「皆んな言ってしまった方がいいぜ」 「…………」 「お前が隠して居る事があるから、事面倒なんだ」 「…………」 「お前はお菊を殺す気で、碇床から剃刀を持出したに相違あるまい」 「いえ、親分」  徳松は振り仰ぎました。 「黙って聞け、——路地の外で待っていたが、二人の娘はなかなか来ない。そのうちに変な物音がしたので、飛込んで見ると、お菊はドブ板の上に殺されていた」 「親分」 「お前は剃刀を投出して、路地の外へ飛出し、お吉の声を聞くと、もういちど弥次馬と一緒に引返して、さっき身体についた血の誤魔化しように困ってお菊を抱き上げたはずだ」 「親分、——そのとおりです。恐れ入りました、どこで親分はそれを見ていました」  徳松はヘタヘタと崩折れました。 「何だって早くそれを言わなかったんだ」 「でも、剃刀を持出したり、着物に血がついたり、——逃れようがないと思いました」 「銭形の」  不意に、源吉は平次の肘《ひじ》を押えます。 「何だい、三つ股の兄哥」 「それじゃ、徳松の野郎に、言い逃れの口上を教え込むようなものじゃないか」  源吉はこみ上げる激動を押えている様子です。 「大丈夫だ、それに相違なかったんだ。お菊を殺したのは徳松なんかじゃない、据物斬《すえものぎり》の名人だよ」 「えッ」 「前から抜く手も見せず喉笛《のどぶえ》を切って、噴《ふ》き出す血を浴びる前に逃出したんだ」 「…………」 「後ろから徳松が来たはずですぜ、親分」  ガラッ八が口を出します。 「そのとおりだ。前からはお吉が引っ返して来た、——が曲者は恐ろしい腕利きのうえ身軽だ。お菊を仕留めると、左手の生垣《いけがき》を一気に飛越えて、百姓地へ逃込み、騒ぎの初まったころは、目白坂を下って居たよ」 「…………」 「生垣の中に足跡があった筈だ——今日はもう見えないがその時すぐそれを見つけさえすれば、こんなに多勢縛るまでもなかった」  平次の言葉には何の疑いもありません。 「お吉は? 親分」  とガラッ八。 「何にも知らなかったのさ。お吉が下手人なら、濡《ぬ》れ手拭いへわざと泥をつけたままにして置くよ。お吉は本当に風呂屋の入口で自分の手拭いを拾ったから、女らしい心持で、その晩騒ぎの最中にも手拭いの泥を洗って置いたんだろう。手拭いを洗ったのが、お吉に罪のない証拠さ」  何という明察、——源吉も一句もありません。 「弥助は?」  ガラッ八はまだ堪能《たんのう》しない様子です。 「娘を助けたい一心だ——さア、縄を解いてもらって帰るがいい。お楽の手前、極りが悪かったら、俺が一緒に行って、よく話してやるよ。お楽だって、気の強いことをいっても、二人の娘に死なれちゃ、老先《おいさき》が心細かろう。——精々孝行をしてやるがいい、なア、お吉」  平次は静かに言い終ります。  お吉は縄を解かれるのを待ち兼ねたように、父親の胸に飛付いて泣き出しました。 「それじゃ、下手人は誰なんだ」  源吉の不服そうな顔というものはありません。 「大方判っている積りだ。今晩、——いや、明日の晩、お菊の法事をして貰って、その席で話そう」  平次は静かに立上がりました。  体術と据物斬に秀でたという、お菊殺しの下手人は誰? どう頸《くび》を捻《ひね》ったところで、ガラッ八には解りそうもなかったのです。     九  翌る日の晩、お楽の茶店に集まったのは、近所の衆と、親類と、平次とガラッ八と、それに源吉を加えて、かなりの大一座になりました。  百万遍が済んで、皆んな帰ると、 「御免」  二人の武士が訪ねて来ました。言うまでもなく柴田文内と吉住求馬。主君植村土佐守が、お菊横死の趣《おもむき》を聞いて、二人に香華料《こうげりょう》を持たせたのです。  一と通り挨拶焼香が済んで、弥助、お楽、お吉、源吉、ガラッ八と二人の武家を、店の次の間——仏壇の前に並べると、平次は静かに口を切りました。 「今晩は、お菊殺しの下手人の名を仏壇の前で申上げる事になっております。が、その前に、私の話がすんで下手人の名が出る迄、どんな事があっても、どんな飛んでもない事を申上げても、どうぞ静かにお聞き下さるようにお願い申上げます」 「…………」 「その代り、私の申上げる下手人の名が違っているとか、そのために、不都合な事が起るとかいう時は、その場でこの首を打ち落して下すっても、決して怨《うら》みは思いません」  思い入った平次の調子。仏壇を前に、半円を描いた七人も思わず固唾《かたず》を呑みました。 「話は少し差障《さしさわ》りがありますが、詳《くわ》しく申上げないと、お解りにならないかも知れません。どうぞ、しばらくお許しを願います」  これだけの枕を置いて、平次は本題に入ったのです。  上総国《かずさのくに》勝浦一万一千石の領主植村土佐守、遠乗りの帰りお楽の茶店に立寄り、お菊を見染《みそ》めて、下屋敷へ入れることになり三百両の支度金まで出しましたが、それほどの事が、いくら隠しても、奥方の耳へ入らないはずもありません。  奥方は時の老中酒井佐衛門尉の息女、土佐守には一目も二目も置いておりますが、さすがに嫉妬《しっと》がましく、それはなりませんとはいえません。  そこで、お家の体面論を真っ向に、お菊の茶屋へ案内して、この事件を惹起《ひきおこ》した、柴田、吉住の両名へ、詰問したのでした。 「御両人と申しても、これは多分、吉住様お一人へ奥方から仰しゃったので御座いましょう。吉住様は文武の達人で、酒井様から、奥方付として、御輿入《おこしいれ》に従って植村家へ入られ、そのまま御用人に取立てられた方でいらっしゃいます」 「…………」  平次の言葉に、両士は黙って聞き入りました。ここまでは事件の図星を言い当てた様子です。 「吉住様からは、土佐守様へは諫言《かんげん》は申上げ憎い。が、奥方の思召しを無にして、土佐守様が卑《いや》しい女を召出されるのを、そのままにもならず、柴田様とお二人が、お菊を見出して橋渡しまでなすった形なので、ことごとく閉口されたことでしょう」 「…………」 「この上は、下屋敷へ迎え入れる前に、お菊を殺す外はない。植村家安泰のため、一つはまた、土佐守様と奥方の仲を無事に納めるため、お二人のうちの一人——それも私は存じて居ります」 「…………」 「——お菊を四五日付け狙ったことでございましょう。とうとう、明日は下屋敷入りという前の晩、風呂から帰るのを首尾よく斬った、が、——前後から人が来て逃げようはない。咄嗟の働き、生垣を飛越してお屋敷へ帰られ、翌る日はわざわざ乗物を仕立てて迎えに来られ、おどろいた振りをして帰られれば、それで万事無事に納まると思って居られた——」  平次の話の予想外さ、一座は死の沈黙に陥《お》ちて、息をするのも忘れたよう。  平次はそれに構わず、冥府《めいふ》の判官のように、冷たく、静かにつづけました。 「ところが、下手人の疑いはあらぬ三人に懸って、世上の噂は大きくなるばかり。土佐守様の御名前も引合に出そうになって見ると、そのままには指措《さしお》き難い。思案に余って、吉住様は、私の家へ御出で下された、一つは無実の罪で縛られた、三人の者を助けたいため、——一つは下手人が解らぬままに、うやむやに世評を揉み消したいため——」 「…………」  一座の視線は期せずして、吉住求馬の顔に集まりました。植村家で名題の腕利き、純情で、忠義で、奥方のためには水火も辞《じ》さないのは、この人でなければなりません。  が、吉住求馬の顔は、作り付けた人形のように静まり返って、少しの表情の動きもなかったのです。 「それでは、お名前を申上げましょう、——主君のため、お菊を殺したのは」  平次は顔を挙げて、次の言葉が唇の上へ動きました。 「もうよい。許せよ、お楽」  平次の言葉を抑えて、脇差を引抜きざまガバと自分の腹へ突き立てたのは、——何と、中年者の武家、柴田文内の方だったのです。 「柴田様、よく遊ばしました」  と静かに膝行《いざり》寄る平次。 「柴田氏、——貴殿の仕業《しわざ》とは、今の今まで拙者も知らなかった、こうと気がつけば——」  吉住求馬もこの断末魔の同僚の側《かたわら》に悲痛な顔を差寄せました。 「平次、ことごとく其方《そち》の言うとおりだ。主君をここへお誘いしたのは、拙者一代の過《あやま》ち、——これは吉住氏の落度ではない。それにもかかわらず、吉住氏が奥方の御叱《おしかり》を蒙《こうむ》ったと聞いた時から、拙者は自分の罪のつぐないを覚悟していたのだ」  柴田文内の息が切れて、一座は深い沈黙に落ちます。 「…………」 「お楽、お吉、弥助——これで許してくれ。腹を切る外に、俺は、俺はこの過ちを償《つぐな》う道を知らなかった」 「…………」 「さらば」 「柴田様」  次第に落ち行く柴田文内の最後を、平次と求馬は、せめて左右から抑えてやります。 「…………」  刀を抜くと、サッと畳に流るる血汐。  それを避けもせずに、お楽とお吉は泣き伏しました。 「南無——」  忙《せわ》しく香をくべて、鐘《かね》を叩くのは弥助。新仏《にいぼとけ》の前に灯《あかり》が揺《ゆら》いで、夜の鳥が雑司ガ谷の空を啼《な》いて過ぎます。  金の鯉     一  江戸の大通《だいつう》、札差《ふださし》百九人衆の筆頭に据《す》えられる大町人、平右衛門町の伊勢屋新六が、本所|竪川《たてかわ》筋の置材木の上から、百両もする金銀象嵌《きんぎんぞうがん》のたなご竿《ざお》を垂れているところを、河童《かっぱ》に引込まれて死んだという騒ぎです。  その噂を載《の》せて、ガラッ八の八五郎は疾風《しっぷう》のごとく銭形平次のところへ飛込んで来ました。 「た、大変ッ」 「何だ、八。帯が半分解けているじゃないか、煙草入れをどこへ振り落としたんだ」 「それどころじゃねえ、親分。万両長者が土佐衛門になったんだ——あ、水が欲しい」 「瓶《かめ》の中へ首でも突っ込んで、土佐衛門になるほど呑むがいい。空《から》っ尻《けつ》の土佐衛門の方が話の種になるぜ」  平次は驚きもしません。ガラッ八|奴《め》なにを面喰って飛込んで来やがった——と言った顔です。 「死んだのは平右衛門町の伊勢屋新六ですぜ、親分」 「金持が土佐衛門になったところで、十手|捕縄《とりなわ》を持出すには及ぶめえ」 「それが、竪川で釣をしているうちに、河童に引込まれたんで——」 「まさか、河童を縛れというわけじゃあるまいね。河童や狸の退治なら御用聞を頼むより、武者修行か何かに頼む方が筋になるぜ」  もう戌刻《いつつ》にも近かったでしょう。平次は遅い晩飯をすまして、良い月を眺めながら、ぽつぽつ寝支度に取かかろうと言う時、あわて者のガラッ八に飛込まれて、御機嫌ははなはだ斜です。 「懊《じれ》ったいね、親分」 「俺もじれったいよ。そこで首を振っていられちゃ、折角のよいお月様が拝めなくなる」 「それどころじゃねえ、——お月様は明日の晩も出るが、伊勢屋新六を突き殺した野郎は、明日になれば、涼しい顔をしてお月様か何か見ていますぜ」 「何? 伊勢屋新六を突き殺した? 河童がかい?」 「河童なら尻小玉《しりこだま》を抜くのが商法でしょう。突き殺すという術《て》は怪物《えてもの》にはないはずじゃありませんか、ね親分」 「——商法は変な言い草だが、突き殺したのが本当なら、髷《まげ》を結《ゆ》った河童だろう。そいつは何時のことだ」  銭形平次もようやく本気になります。 「酉刻《むつ》〔六時頃〕ぎりぎり、金竜山の鐘が陰《いん》に籠《こも》ってボーンと鳴るのと、伊勢屋新六がドボンとやらかしたのと一緒だ」 「フーム」 「石原の兄哥《あにき》(利助)のところで油を売ってるてえと、堅川からその知らせだ。お品さんは家中の若い者を一人のこらず現場へ出して、そっと|あっし《ヽヽヽ》に言うことには——これは容易ならぬことになるかもしれない。子分たちだけでは心細いから、すぐ銭形の親分のところへ飛んで行って下さい。お願いをしても聞いて下さらなかったら、首へ縄を付けても引張って来ておくれ——と」 「お品さんが——首へ縄を付けて——とは言うまい」 「それは物の譬《たとえ》で」 「つまらねえ作《さく》なんか抜きにして——それっ切りか」  と平次。 「それっ切りだが、石原の利助兄哥は中気で、動きが取れねえ。お品さん一人で気を揉《も》んでいるが、札差の伊勢屋新六が殺されたとあっちゃ、八丁堀の旦那衆も放って置きなさるめえ。行ってやって下さいよ、親分」  ガラッ八の八五郎は、思いの外の親切者でした。利助の娘のお品が、女だてらに、親父の縄張りを守っている苦心を思うと、本当に平次の首根《くびね》っこへ、縄を付けても引張り出したい心持でしょう。  平次は黙って考え込みました。ガラッ八に口説かれる迄もなく、お品を助けてやるに異論はありませんが、今から竪川の現場へ行ったのでは、どんなに急いでも亥刻《よつ》〔十時〕近くなるでしょう。その前に何かする事はないものか、そんな事を思い廻《めぐ》らしているのでした。 「八」 「ヘエ——」 「手前《てめえ》、足は早いな」 「馬ほどじゃありませんが、人間並には駆けますよ」 「竪川の材木置場まで、四半刻《しはんとき》〔三十分〕ではどうだ」 「四つん這いになって行くんですかい、親分」 「馬鹿なことを言やがれ」 「四半刻ありゃ、亀井戸の天神様へ行って有難いお札を頂いて帰って来ますよ」 「それじゃ大急ぎで飛んで行って、掛り合いの者を一人残らず集めて置いてくれ。どこかへ纏《まと》めて、一人も外へ出しちゃならん」 「そんな事ならわけアありません」 「待て待て、糸目《いとめ》の切れた凧《たこ》見たいな野郎だ」 「まだ話があるんで?」 「釣場の材木に血が付いているなら、洗っちゃならねえ。血がなかったら、——こうと、伊勢屋新六の供の者や近所にいた者の髪《かみ》を見るがいい。男でも女でも構わねえ、髷《まげ》の中が湿《しめ》っているか、元結《もとゆい》が濡れている者があったら、その場で縛り上げるんだ、解ったか」  平次の命令は細々《こまごま》と行届きます。 「大解りだ、親分は?」 「後からそろりそろりと行く」 「それじゃ」  ガラッ八の八五郎は、飛びました。身上も軽く気も軽い男です。強健な三歳駒のように本所へ——。     二  その頃の釣の豪勢さは、物の本にわずかにおもかげを伝えて居ります。竪川筋の大名釣《だいみょうづり》は、置材木の上に金襴《きんらん》の座布団を敷き、後ろに金屏風を立てめぐらし、金銀|象嵌《ぞうがん》の畳竿に、当時の名妓の生毛《いきげ》を釣糸とし、茶器の贅《ぜい》を尽し、酒食の豪華を競い、印籠から練餌を出して、盛装の腰元に付けさせ、二寸足らずの|たなご《ヽヽヽ》や青鱚《あおぎす》を釣って、悦《えつ》に入ったというに至っては、有閑無為の人達の贅《ぜい》が馬鹿馬鹿しくも気の毒になります。  伊勢屋新六は江戸の札差でも町人に違いはなく、まさか、金屏風をめぐらし、椎茸髱《しいたけたぼ》の腰元に餌をつけさせるような事はしませんが、番頭手代から、芸妓幇間《げいしゃたいこ》を引きつれ、白粉臭い生きた屏風に取巻かれて一本百両の竿に、高尾、小紫の生毛をつけ、竪川の——その頃はよく澄んでいた水に、ポンと鉤《はり》を投《ほう》って、金煙管《きんぎせる》を脂下《やにさが》りに啣《くわ》えたことに何の変わりもありません。  それが、薄暮の水の中に、河童と覚しき怪物に引込まれ、二の橋から迎えに来た船頭文次の船に、漁師の伊太郎の手で引上げられたのは、ほんの煙草二三服の後でしたが、頸筋を深々と刺されて、もう虫の息になっていたと言うのです。  銭形の平次が竪川の材木置場に馳《は》せ付けたのは、戌刻半《いつつはん》〔九時〕そこそこ、思いの外の成績ですが、それでも、ガラッ八よりは四半刻近くも遅れました。 「親分、——掛り合いの人間を、庵寺《あんでら》の中へ一と纏《まと》めにして置きましたよ」  ガラッ八はそれを迎えて、猟犬のような鼻を蠢《うご》めかします。 「それは宜い塩梅《あんばい》だ、——髪の毛は?」 「一人も濡れたのなんかありません」 「じゃ、やはり河童の仕業《しわざ》かな」 「冗談で、——親分」 「まア、いい、——気の毒だが、掛り合いの人達に、因果《いんが》を含めて、その庵寺から出ないようにしてくれ。評判のよくねえ人間だが、伊勢屋新六が殺されちゃ、お上が放っちゃ置くまい。お奉行所から何とか仰しゃる前に、下手人の目星だけは付けなきゃ——」 「今晩中にやる気ですかえ、親分」 「河童の元結や犢鼻褌《ふんどし》の乾かないうちに縛りたいところだ」 「ヘエ——」  平次はガラッ八に後を任せ、お品と利助の子分二三人を供れて、現場の材木置場へ行きました。  良い月です。その上御用の提灯が二つ、平次の馴れた眼は、大抵のことを見逃しません。 「伊勢屋新六の増長は目に余りましたよ。町人の奢《おご》り僣上《せんじょう》は、いずれおとがめものですが、伊勢屋新は悪く悧口で、なかなか尻尾《しっぽ》を出しません」 「フム」  利助の子分の若松というのが説明してくれるのを、材木置場に立って、平次は神妙に聞きました。 「ひところは恐ろしい女道楽で、吉原《なか》から四宿《ししゅく》、岡場所まで、掃《は》いて廻り、何十人、何百人の若い妓《おんな》を泣かせたか解りません。金があるに任せて大通気取りで荒らし廻るのですから、内証の人気は大したものでも、妓共《おんなども》からはこの上もない嫌われ者で、中には捨てられて入水した者、気の違ったもの、行方不明になったものもあるということです。三十七の男盛りで、何の因果か、伊勢屋は全く好い男振りでしたよ」 「…………」 「故郷の伊勢へ帰った時は、鳥羽《とば》へ遊びに行って、松風|村雨《むらさめ》気取りの海女《あま》姉妹を手に入れ、さんざん弄《もてあそ》んだ挙句、江戸まで跟《つ》いて来られ、一と騒ぎやったとか、——箱根の湯女《ゆな》に追っかけられて、命からがら江戸へ逃げ帰ったとか、一人者の気楽さも手伝って、底も果てもない放埒《ほうらつ》でした」 「それが、厄介なことに楊弓《ようきゅう》、賭《か》け碁《ご》、釣と、女道楽の片手間にやります。——今日なども現に、同じ札差の道楽仲間、お蔵前の坂倉屋忠兵衛に冷かされたのが基《もと》で、午刻《ひる》過から暮六つまでに、十匹釣ったら坂倉屋が百両で買ってやる、十匹が一匹欠けても、伊勢屋が百両出すという約束で、六つの鐘が鳴るまで、——四方《あたり》はもうすっかり暗くなったのも構わずに、血眼になって釣って居たのだそうです」 「十匹釣れたのか」  と平次。 「九匹まで釣ったそうですよ、——あと一匹という時、暗くなりかけた水の中に、何か光る物があったんだそうです。伊勢新が乗出して覗いたところを、水の中から、毛むくじゃらな手が出て引込んだと言うんです」  若松は平次の立っているあたりを指しました。紬《つむぎ》の座蒲団は少し斜めになって、その下に敷いた茣蓙《ござ》は、水へ二三寸落ちかけて居りますが、皎々《こうこう》と照らされた材木の上にも、敷物にも血の痕などは一つもありません。  竪川の水は、斜に上った月の光を受けて、ギラギラと光るだけ。底などは見えるはずもなく、ここから平次も、何の手掛りを得られそうもなかったのです。     三  供の者は、番頭の平七と、漁師《りょうし》の伊太郎と、芸妓が三人、年増のおさの、すこし若いお国、一番若いお舟、いずれも仲町の良い顔、それに幇間《たいこもち》の理八、これが全部です。  それだけを、材木置場のすぐ裏の庵寺に入れて、ガラッ八と利助の子分が、番犬のように頑張っているのですが、平次はそれらの人達に逢う前に、まだ舟の中においたまま、検屍《けんし》を待っている、伊勢屋新六の死体を見ることにしました。  舟はそこからほんの十間ばかり、二つ目寄りに繋《つな》いで、船頭の文次が、町役人と一緒に番をしております。 「あ、銭形の親分さん、御苦労様で——」  文次が驚いて挨拶するのへ、軽く会釈《えしゃく》をして、平次の手は舟の中の菰《こも》を剥ぎました。 「ウーム」  万両|分限《ぶげん》も、こうなっては見る影もありません。何もかもまだベットリ濡れて、出血のために青く引締った顔は、月の光の下に、不気味なほど人間離れがして見えます。右頸筋《みぎくびすじ》に、下から突き上げた傷は、ささくれた肉を盛り上げて、ほとんど長方形に見えるのは恐ろしいうちにも玄人《くろうと》の眼をひきます。 「親分、これは何で突いたのでしょう」  若松はその傷を指しました。 「匕首《あいくち》や刀ではないな」 「不思議ですね」 「河童の牙《きば》が鑿《のみ》のようになって居るとは聞かなかったよ——下から突き上げたようだが」  平次の顔は、少しも冗談を言っている様子はありません。  平次とお品と子分達は、庵寺へ引返しました。この上は男三人と女三人を、片っ端から調べるより外《ほか》に方法はなかったのです。  最初に庵寺から引出して、月下の材木置場へ伴れて来られたのは、漁師の伊太郎でした。佃《つくだ》の者で四十男。伊勢新の釣に網のお供をさせられますが、金にはなっても、人も無気《なげ》な豪勢振りが、少し小癪《こしゃく》に障って居るらしい口吻《くちぶり》です。 「あんまり奢《おご》りがひどいから、こんな事にならなきゃ宜いがと心配して居ましたよ。|あっし《ヽヽヽ》は稼業《かぎょう》だから来いと言われれば、どこへでもお供をしましたが、お手当祝儀を世間並の倍貰っても、百両の釣竿で鮒《ふな》や|たなご《ヽヽヽ》を釣るのを見ちゃ良い心持はしません。第一女郎の髪の毛で釣られちゃ、魚だって浮ばれるわけはねえじゃありませんか」 「すると、お前は、伊勢新が殺されてくれれば宜いと思ったのかい」  と平次。 「飛んでもない、——私の大事なお華客様《きゃくさま》だ。百までも生きて貰いたいと思いましたよ」  伊太郎はあわてて自分に振りかかりそうな疑いを払いのけました。 「伊勢新が水へ落ちた時お前はどこに居たんだ」 「釣の邪魔になるからと言って、二つ目に置いた舟の迎えに行って、船頭の文次と二人で漕《こ》いで材木置場の方へ来ていましたよ。すると、二三十間先の材木置場で、女の声がして」 「待ってくれ——女の声を聞いたのは、その時が始めてか」 「ヘエ、——暗くなりかけて、よくは解りませんでしたが、材木置場には女が二人、何か大騒ぎをしている様子でした」 「それから」 「びっくりして漕いで行くと、——旦那が——旦那が——と川を指して居るから、大急ぎで五六間のところへ行くと、人間が一人プカプカ浮いたり沈んだりして居るじゃありませんか」 「…………」 「二人がかりで引揚げて見ると、それが伊勢屋の旦那で——水に落ちただけなら、伊勢生れの旦那は泳げるはずですが、あんなに喉《のど》を突かれちゃ助かりっこはありません」 「それでも何か言ったか」 「介抱すると、たった一と言、——金《きん》の鯉《こい》と言ったようですが」 「金の鯉?」  平次はくり返しました。 「それっきり息を引取って、誰が殺したか少しも解りません」  さすがに漁師の伊太郎は、河童説を信じてはいない様子です。  次に呼出されたのは幇間《たいこもち》の理八、五十がらみのよく肥った男で、小唄《こうた》を上手に歌うのと、軽口がうまいので人気のある男芸者です。 「これは銭形の親分さん」  ヒョイと下げた頭、あんまりよく禿《は》げて居るので、前からでは髷《まげ》も見えませんが、後ろには若干《いくばく》の毛があり、真新しい元結が、よく油で塗り堅めた小指ほどの髷節を確《しか》と締めて居ります。 「師匠はどこに居たんだ」  と平次。 「どうした事か、一刻ばかり前からひどく腹が痛くなって、我慢にも、外の風に吹かれちゃ居られません。仕方がないから、おさの姐さんと一緒に、庵寺の隣りの茶店の離れを借りて、休んでおりましたよ」  理八は額をツルリと撫で上げました。 「おさのも腹が痛かったのか」 「ヘエ——お店から持って来た、安倍川餅《あべかわもち》を二つ三つやると、半刻ばかり経って急に腹が痛み出しました。他の方は酒がいけるので、安倍川なんかに手は出しません。甘いのがいけるのは、私とおさの姐さんだけで」 「その安部川餅の残りはどうした」 「竹の皮ごと川へ捨ててしまいましたよ」 「…………」  平次は舌打をしたい心持でした。安倍川がなくては調べようがありません。 「でも、妙にほろ苦い安部川でございましたよ。あんまり沢山食わなかったので、命拾いをしたのでしょう、ヘエ」 「それにしては達者じゃないか、毒などを食わされた人間のようじゃないが——」 「二度ばかり通じが付くと、ケロリと直ってしまいました。おさの姐さんも同じことだそうで」 「大黄《だいおう》かな?」  平次は首を捻《ひね》りました。曲者は酒を呑まない二人を遠ざけるために、安倍川へ大黄を混入して、下痢《げり》を催《もよお》さしたと考えられないこともありません。砂糖を入れた大黄を、黄粉《きなこ》のつもりでしたたかに呑んだだけなら、二三度通じが付いて、あとはケロリとして居るのもありそうなことです。 「——でしょうかな、親分さん」  理八はまだ腑《ふ》に落ちない顔をします。 「ところで、伊勢屋新六を怨《うら》んでいる女は誰だろう?」 「江戸中の女の百人に一人位は怨んでいますよ、——何しろ金があって薄情で、男がよくて、口さきがうまくて、浮気で、箒《ほうき》で、ケチと来て居るんで」 「…………」  あまりの痛罵《つうば》に平次は呆気《あっけ》に取られました。ツイ先刻までは、伊勢新の腰へダニのように喰い付いて居た男です。死んで、もう一文にもならないと見ると、この男の毒舌には全く遠慮がありません。 「死んだ人を悪く言うようですが、嘘だと思ったら、おさのに聞いて下さい」 「そのおさのの事で、師匠は伊勢新を怨んでいるのだろう」  平次はズバリと言ってのけました。理八のいけ洒蛙洒蛙《しゃあしゃあ》としたのが面《つら》憎かったのでしょう。 「と、飛んでもない、親分さん。怨んでるのは、お国姐さんとお舟姐さんで、あの二人は若くて綺麗だから、伊勢屋の旦那の人身御供《ひとみごくう》に上がった方で」 「あの茶店の離屋《はなれ》から材木置場へは、人目に触れないように来る道があるはずだ。二人で組んでやると、水へ入って来て、髪を結い直して、済《すま》していてもちょっと解るまいな」 「と、飛んでもない親分、この庵寺の尼さんじゃあるまいし、私は禿《は》げてもこのとおり毛がありますよ。濡れた毛か濡れない毛か、よく見て下さい」  理八は泣き出しそうでした。自分の小さい髷《まげ》を摘《つま》んで、平次の前へ執拗《しつこ》く持って来るのです。 「おさのは幾つだ」 「もう三十八で、ヘエ、伊勢屋の旦那より一つ年上ですよ。来年は私と世帯を持つ約束で、こんな事で人殺しの疑いなんか受けちゃ間尺《ましゃく》に合いません」  理八はとうとう泣き出してしまいました。     四  続いて芸妓が三人、おさのの言うのは、理八と全く同じことで、何の変哲《へんてつ》もありません。激しい腹痛と離屋《はなれ》と、それから下痢、と相談した以上に、細かいところまで口が合います。  次に呼出されたお国は、せいぜい二十一二、芸妓にしては年増ですが、仲町《なか》の芸妓らしく素顔に近い薄化粧で、少し青い顔も、唇のわななきも、抜群の美しさを隠しようはありません。 「何だって、伊勢屋を川へ突き落した」 「…………」  平次の言葉の峻烈《しゅんれつ》さに、お国はハッと息を呑みました。美しい顔が真っ青になって、額口から、冷たい汗がにじみます。 「河童のせいなどにしやがって、飛んでもねえ女《あま》だ。お上にも御慈悲がある、伊勢屋の悪いこともことごとく承知だ。残らず言ってしまえッ」 「申します、親分さん」  お国はヘタヘタと材木の上に崩折《くずお》れてしまったのです。月の光に濡れたような袷《あわせ》、白い襟に後れ毛が絡《から》んで、——辛《から》くもあげた顔には悲しみと絶望の色が一パイでした。 「お舟と二人で突き飛ばしたことは解っている。が、どんな怨みがあった」  平次は日頃の平次になく峻烈です。 「妹は何にも知りません、——今晩帰ると、自分が人身御供に上げられることさえ知らずに居る妹ですもの」 「…………」 「水の中に何か光る物があったのも、本当です。夕陽の具合で、いつも見えないものが材木置場から見えたのでしょう。それを私が教えると、伊勢屋の旦那は釣竿を片手に、材木の端っこまで乗出して水の中を眺めました」 「…………」 「泳ぎの自慢な旦那でした。伊勢とかで育ったそうで、——こんな川へ落したところで、まさか死ぬような事もあるまい、私も四五年前、あの人にはひどい目に逢いました。この上妹まで、獣《けだもの》の餌食《えじき》にしたくないばかり、——今晩が過ぎたら、何とかなるだろうと思う浅墓《あさはか》な考えから、突くともなしに、後ろから突いてしまいました」 「…………」 「旦那が水に落ちると、何にも知らぬ妹は大きな声を出しました。私も思わず助けを呼ぶと、一度水に沈んだ旦那は浮び上がって来て怖《こわ》い顔で私達を睨みましたが、水の中の光る者を捜《さが》すつもりか、また底へもぐりました。——私と妹はもう怖くてそれを見ては居られません。思わず向うから来た舟を呼ぶと、旦那はもういちど水の上へ浮び上がって来ました。が、その時はもう怪我《けが》でもした様子で、滅茶苦茶に苦しんで、下へ下へと流れて行きました、——水は真っ赤になったようでした」  お国は言い了《おわ》ってガックリ首を垂《た》れました。 「それっ切りか」 「それっ切りでございます。銭形の親分さん、妹を助けてやって下さい。あの子は、何にも知りません」 「お前の言うのが本当なら助けてやる」 「お願い」  お国は手を合せます。 「が、伊勢屋の首を突いたのは、誰だ?」 「存じません」 「水へ突き落す時、後ろからやったのじゃあるまいな」 「そんな事が、親分さん」  その不合理さは平次自身にもよく解ります。が、人間が水の中で突かれるということもちょっと想像の出来ないことでした。  いずれにしても怪しいのは水の中にあったという金色の一物です。夜の作業の無理を承知の上で、平次は船頭の文次と漁師の伊太郎を水に潜《くぐ》らせることにしました。篝《かがり》を焚《た》き、松明《たいまつ》を造り、青砥藤綱《あおとふじつな》ほどの騒ぎをするのを、平次は宜い加減に眺めて、庵寺へ引返します。  外見は間違いもなく寺院風ですが、荒れに荒れて、戸も壁もあると言うは名ばかり。中は仏間と居間と台所だけの簡素な造りで、そこに大きな疑懼《ぎく》を背負《しょ》わされて、閉じ込められた六人の男女は、更くる夜とともに不安を募らせるばかりです。  庵主は三十前後の若い尼で、良海《りょうかい》と名乗りますが、色の浅黒い、確《しっか》りした恰幅《かっぷく》と、旅から旅を経めぐったらしい、風雨の洗礼が、何となく人柄を粗野《そや》に見せます。  青々とした剃《そ》り立ての頭、目鼻立ちも醜《みにく》くはなく、念珠を爪繰《つまぐ》って仏の御名を口から絶やさないのと、竪川べりを通る時は、贅沢な素人釣の後ろに立って、一くさりの経文《きょうもん》を手向《たむ》ける癖があるので、釣好きの仲間からは、相当に煙たがられて居ります。  平次はこの尼に逢って、いろいろ訊ねましたが、半分は念仏を称えているので、一向話が進みません。ただ、尼は関西の生れで、五年前に旅に出たこと、この竪川に住み付いて一年、町の人に請《こ》わるるまま、無住の庵室に住んで、朝夕仏に仕える外に仕事のない、行い澄ました日常が判っただけです。  それから、お国の妹というお舟にも逢って見ました。これは十六の小娘で、お国とは本当の姉妹、顔も美しさもよく似て居りますが、お国はこの稼業《かぎょう》の女らしく、不摂生《ふせっせい》と心配で早老が目立っているのに比べて、お舟はまだ、木から取り立ての果物のように新鮮さが匂って居りました。野獣のような伊勢屋新六が、白羽の矢を立てたのも無理はありません。  平次の問いに対して、思いの外ハキハキと応えてくれますが、結局はお国の言ったとおり、何にも知らないことが判っただけです。     五  もう一人、庵寺に囚《とら》われた中に、番頭の平七が居りました。これは分別臭い四十男で、主人新六の遊び友達には少し固すぎますが、何となく悧巧《りこう》そうな男で、平次も一応は疑って見ましたが、間もなく、事件のあった四半刻前、平右衛門町の自宅へ主人の帰宅の先触《さきぶれ》に帰り、騒ぎを聞いて、酉刻半《むつはん》頃また竪川へ駆け付けたのだと判って、これは疑いの外に置かれました。  その番頭の平七が、そっと平次に耳打をしたのです。 「旦那を突いたのは鑿《のみ》じゃございませんか」 「それは判って居る、——たぶん川の底から出て来るだろう」 「でも、庵寺の隣と——材木置場との間に、大工道具の置場がありますが——」 「何?」  平次は提灯を持たせてすぐ飛出しました。なるほど、材木置場に通う職人達の便宜のために建てたのでしょう。ほんの二た坪ばかりの物置があって、道具箱の下には、番人が寝泊りの出来るようになっていたのです。  開けて見ると、中は空《から》っぽ。  棚の上の道具箱をのぞくと、一番上に置いた鑿《のみ》が一挺、半ば乾きながらも、下になった半分は、したたかに濡れて居るのが見付かったのです。 「これだ」  取上げて見ると、刃《は》が脂《あぶら》に曇って、血の痕《あと》こそありませんが、人を突いた証拠が立派に揃っております。  鑿の持ち主はすぐ捜し出されました。駒吉と言う若い男、まだ半人前ですが、人間が甘いのを可愛がられて、町内では知らない者もない人気者です。騒ぎの面白さに、自分の巣へも入らず、あっちこちと弥次馬について歩いて居るのを、これはガラッ八に首根っこを掴まれました。 「俺は何にも知らねえ、鑿は俺の物に違いないが、人なんか突いた覚えはねえ」  平次が静かに訊いても、すっかり逆上《ぎゃくじょう》して、知らぬ存ぜぬの一点張りです。 「それじゃ、小屋へ入って、道具を持出した人間を知らないか」 「知らねえ、知らねえと言ったら、何にも知らねえ」  これでは手の付けようがありません。  試《こころ》みに小屋へ行って見ると、壁と言ってもほんの筵《むしろ》を吊っただけ、道具箱の在所《ありか》さえ知って居れば、外から手を入れて鑿を取出し、人間一人水中で突いた上、元の場所へ返して置けないことはなかったのです。 「この辺の様子を知って居る者だろう」  平次もそう見当を付けるのに精一杯です。第一、駒吉の頭は水気どころか、ろくに油気もない始末で、火を付けたら、火口《ほぐち》のように燃え出しそうに見えるのです。  最後の一人、伊勢屋新六と百両の賭《かけ》をした、坂倉屋忠兵衛も登場しなければなりません。平次は気が付くとすぐ、お品に頼んで、利助の子分を二人走らせました。  お蔵前まで往復一刻足らず、何もかも解ったところは、平次を落胆《らくたん》させるばかりでした。坂倉屋の言い分は、『百両の賭《かけ》はたしかにした。が、そんな事はありがちの事で、百両ばかりの金を取られるのが惜《お》しかったら、月に一人ずつ人殺しをしなければなるまい。——それはまア宜いとしても、今日は碁《ご》の師匠が来て、昼頃から打ち始め、十番碁の今は七番目だから、夜中前には外へ出られるはずはない』という挨拶です。  金持の増長した言い草ですが、それが本当なら、どうすることも出来ません。  そのうちに川の方から、多勢の声高に話すのが聞えて来ます。 「親分、川の中から大変なものがあがりましたぜ」  ガラッ八が飛んで来ました。 「何だ、大変な物てえのは?」 「金の鯉」 「えッ」  平次も新しい糸口《いとぐち》を掴んだような気がして、飛んで行きました。  伊勢屋新六が、むき出しの頸筋へあれ程の傷を受けて、材木置場に血の斑点《はんてん》もこぼさないのは、やはり水の中で突かれたはずで、水の中に謎《なぞ》が潜《ひそ》むとすれば、伊勢屋が断末魔に言った『金の鯉』という言葉が意味深長になります。 「親分さん、これが水の中にありました」  水から這い上がったばかりの、船頭文次の手の上には、金鱗燦《きんりんさん》とした一尺ばかりの鋳物《いもの》の鯉が載っているのです。 「…………」  平次は黙って受取りました。音や貫々や、作の具合を見ると、銅に金鍍金《きんめっき》をしたものらしく、安置物によくある品ですが、水に入ったのは昨今の様子で、大した変色もせず、錆上《さびあが》ってもいません。  作は拙劣《せつれつ》で、まず田舎の床の間でなければ通用しないものでしょう。引くり返して裏を見ると、それでも、勢州住人治郎兵衛作と銘《めい》が入って居ります。 「…………」  平次は次第に物事が判って来るような気がしますが、謎の性質が深いせいか、まだ核心《かくしん》には触れそうもありません。 「何刻《なんどき》だろうな、八」  いきなり妙な事を聞く平次です。 「子刻《ここのつ》でしょうよ」 「泊めたら心配するだろう。みんな帰してくれ」 「ヘエ——」 「庵寺に止め置いた六人と、船頭を入れて七人、みんな帰してくれ。女どもは道が淋しかろう、乗物の世話をしてやるがいい」 「そんな事をして構いませんか、親分」 「下手人《げしゅにん》はやはり河童だよ」 「ヘエ——?」  ガラッ八は何が何やら解らずに、庵室へ引返しました。が、しばらくしてまた戻って来ました。 「みんな帰りませんよ、——河童が下手人だというわけを聞かなきゃ、安心して帰って寝られないと言うんで」 「なるほどな、——好ましい事じゃないが、それでは河童の正体を教えてやろう。みんな庵寺へ集めて置くがいい」 「ヘエ——」  ガラッ八は有頂天の様子で戻ります。     六 「まず、第一に」  平次は四方《あたり》を見廻しました。狭い庵室の二た間を打《ぶ》っこ抜いて、十三四人は入ったでしょう。疑われたのも、疑われないのも、好奇心にすっかり夢中ですが、たった一人、庵主《あんしゅ》の若い良海尼だけは仏壇の前に端坐して、何やら口の中で誦《ず》しつづけて居ります。 「第一に、伊勢屋新六を良く思っている人間は、この中に一人もいないのが不思議だ」  そう言えば、船頭も漁師も、幇間《たいこもち》も番頭も、腹の中では新六を怨むかさげすむか、とにかく良くは思っていない様子です。 「それから、疑って見ると、不思議なことに潔白な人間は一人もいない——」  平次は皆んなのけげんな顔を見ながら続けました。 「理八とおさのは、腹が痛くて茶店の離室《はなれ》へ行ったと言うがあれは大嘘だ」 「親分さん」  理八は乗出しましたが、平次はそれに構わず続けました。 「いくら大黄《だいおう》だって、そんなに急に腹が痛くなるわけはないし、怪しい安倍川を川へ捨てたというのもテニオハの合わない話だ、——これはやはり二人で逢引《あいびき》するための拵《こしら》え事だろう。腹が痛いということにして、離室で来年の春の事でも話していたに違いない、——もっとも二人|共謀《ぐる》になって、水の中の働きさえ出来れば、離室から抜出して楽に伊勢屋を殺せたはずだ」 「親分さん、私は徳利でございますよ」  理八はまた口を出します。 「文次と伊太郎も、二人|共謀《ぐる》になれば、伊勢屋を殺せるはずだ。二人共水に達者だから、一人が二三十間潜って、伊勢屋を刺《さ》して来さえすればいい」 「飛んでもない親分——」  漁師の伊太郎はムキになりました。 「お国とお舟が二人力を協《あわ》せてやれば、これも伊勢屋を殺せる。いちど突き落して、材木へ泳ぎ付いて、這い上がろうとするところを、上から鑿《のみ》で頸筋を突けば——」 「鑿の傷は下から突き上げておりますよ、親分」  今度はガラッ八が横槍を入れます。 「手前は黙って居ろ」 「…………」 「番頭さんも途中から小戻りするという手があるし、駒吉も怨《うら》みがあれば材木の蔭に隠れて、這い上がろうとするのを突けないことはない」  平次の論告は、とにもかくにも本当らしく聞えます。あまりの不気味さに、十三四人、黙りこくって顔を見合せました。     七 「ところで庵主さん」  平次は庵主の良海尼に声をかけました。 「ハイ」  看経《かんきん》を止めて、静かにふり向いた庵主の顔は、何と言う邪念《じゃねん》のない平静さでしょう。 「この鯉の置物をどうして、川の中へ沈めて置きました」  平次の問いは予想外です。 「あ、それの事ですか、——あの人達が、あまり無益な殺生をするから、戒《いまし》めのために釣場の下へ沈めて置きましたよ。そのせいで一匹でも魚が助かれば、何かの供養《くよう》になろうと思いましてな」 「なるほど、ところで、庵主さんは、鳥羽の海で働いて居られたのでしょうな」 「…………」 「海女《あま》が鮑《あわび》を取る時は、水の中に潜って、鑿《のみ》を使うと聞きました。水に潜ってあれだけ鑿を使えるのは、武芸の達人にも出来ませんよ」 「…………」 「それから海女《あま》は水の中へ商売道具の鑿を捨てて来るはずはない。これが外の者なら、泳ぎ悪《にく》いのを我慢して、血脂《ちあぶら》のついた鑿を持って来て、濡れたまま元の場所におくのがかえって不思議だ」 「…………」  おそろしい静寂です。一座の人の顔は驚愕に化石《かせき》しますが、良海尼だけはかえって女らしい柔《やわら》かさと落着きを取戻して、何の恐るる色もなく静かに平次を見上げるのでした。 「伊勢屋を突いたのは、水中の働きに違いないが、この人数の中で頭の毛の濡れた人間は一人もない、——ところが——」  皆んなの眼は良海尼のよく剃《そ》り丸めた、碧空《あおぞら》のような頭に膠着《こうちゃく》しました。 「もうひとつ、これは黙って居るつもりでしたが、裏口の盥《たらい》の中に、濡れた腰衣《こしごろも》と、白無垢《しろむく》と、襦袢《じゅばん》とがありましたよ」 「隠す気もなく隠したのでしょう、——私はまだ悟《さと》り切れない——でも、何方《どなた》か罪に落ちそうになれば、名乗って出るつもりでした」  良海尼は静かに言うのです。 「庵主さんは、松風ですか、村雨ですか」  と平次。 「妹は、恋《こ》い焦《こが》れ、怨《うら》み疲《つか》れて死にましたよ。五年前の、——九月、ちょうど今日」 「で、あと一つだけ、聞きたいことは、あの鯉のことですが——」  平次は何となく、この尼だけは下手人扱いにする気がなかった様子です。 「悪性男は、——江戸一番の分限《ぶげん》と言いふらして、金無垢《きんむく》の鯉で私の父親をたぶらかしました。あれがその時の金無垢の鯉ですよ、——銅に薄く金を着せたとは田舎者の眼が届きません」 「…………」 「妹が死ぬと、父親も怨み死《じに》に死にました。銅の鯉を餌《えさ》に娘二人まで捨ててしまったのですもの——、その間に、私ばかりは永らえて、はるばる江戸へ来たのは、あの悪性男に思い知らせるため、——そのうち師の御坊の教えで、しだいに昔の怨《うらみ》も薄れ、心は一日毎に澄み行きましたが、——」 「…………」  良海尼は始めて涙を呑みました。 「この庵寺に住んでいるうち、ツイ眼の前の材木置場を釣場にして、三日に一度、五日に一度、豪勢な行列で殺生《せっしょう》に来るあの男を見ると、私の心には、昔の怨みが蘇生《よみがえ》りました」 「…………」 「金の鯉を釣場の下に投込んで思い知らせ、せめて真人間の心に返させるつもりでしたが、そのお国さんとやらが、悪性男を水の中に突落したのを見ると、あの男の重ねた罪業《ざいごう》が目に見えるような気になり、この世の女人《にょにん》のために、——多勢の親と夫のために、——私は思わず、見覚えの小屋の道具箱から、手馴れた鑿を取り、着物のままで、水の中に飛込んでしまいました」 「…………」 「降魔利生《こうまりしょう》の鑿は岩から鮑《あわび》を剥《はが》すよりも楽に、悪性男をあの世へ引渡してしまいました。これは、良いこととは少しも思いません。御仏に仕える身で、まア、私としたことが、何と言う大罪を犯してしまったことでしょう。南無——」  尼は仏壇の方に向き直って、ヒタと掌《たなごころ》を合せました。滂沱《ぼうだ》と頬に流るるは声のない涙、——それに合せて、どこからともなくすすり泣く声が起ります。  一番先に畳にひれ伏したのは、お国、お舟の二人の姉妹でした。 「これで、何もかも済んだ。皆んなの衆、遅くなったが引取って貰いたい。乗物も用意してあるはず——」  平次は顔を起しました。  もう丑刻《やつ》近いでしょう。傾《かたむ》く月が、障子のない窓を漏れて寒々と尼の項《うなじ》を照します。  翌る日の朝、八丁堀から笹野新三郎出役。とにもかくにも形式どおり大町人の変死を取調べました。河童に引込まれたとも、竪川の主の金の鯉の祟《たたり》であったとも言い、人の噂も平次の調べも一向要領を得ません。  やがて平次が蒟蒻《こんにゃく》問答のような事を言うと、与力笹野新三郎はそれが解ったのか解らないのか、心得顔に引揚げてしまいました。  庵室は空っぽ、良海尼は前夜のうちに消えてなくなって、それっ切り帰って来なかったのです。 「驚いたね、親分、——どうしてあの尼さんと解ったんで?」  ガラッ八は執拗《しつよう》に根掘り葉掘り訊ねます。 「頭の濡れないのは尼さんばかりだからさ。それに、松風村雨の話を聴いていたから、あの尼さんの伊勢訛《いせなま》りで、フト気が付いたんだ」 「なるほどね、まるで判じ物見たいだ」 「手前もその判じ物を当てるコツを早く覚えるがいい。物事を理詰に考えて、当てはまる絵解きが一つしかなくなるまで行くんだ。それが判じ物を解くコツさ」  平次はそう言ってカラカラと笑いました。いかにも快《よ》い心持そうです。   (完)  解説  大衆文芸〈時代小説〉とよばれる文学形式の中で、「捕物帳」小説は、長い歳月にわたって広く大衆庶民読者の間で不滅の人気を保持する分野になっている。八〇年代の現在においても、新しい作家による新しい捕物帳小説が書かれているという現状などをみても、その人気ぶりはよく判る。小説のほうだけに止《とど》まらず、テレビの連続番組の時代劇としても、捕物帳ドラマは大きな人気をもっている。たとえば、大川橋藏が平次親分を演じている「銭形平次」は、長寿番組ナンバーワンとして、つねに人気番組の座を確保し続けているというようなこともあって、まだまだ続けられるであろうといった話題にも賑やかなものがある。テレビ万能時代であるだけに、小説「銭形平次捕物控」は知らなくとも、大川橋藏の平次親分のことはよく知っている若い層の人々も、今では数多いことといえるようである。  どうしてこのように「捕物帳」形式の時代物には高い人気があるのだろうかという理由なども一考してみると、甚だ興味ある話題になると思われる。まず、最初にあげられることは、勧善懲悪を主題とするストーリー構成が、万人読者(テレビの場合は視聴者)にとって理解しやすいことである。そして、シリーズをとおしての主人公(銭形平次のような)としての捕物名人の親分像が典型的な善玉に設定されていることである。それらの条件が捕物帳物語の主柱となっていることが、一般大衆の大きな共感をよぶことになるといってよかろう。さらにこれも捕物帳形式の独特の特長になっているものに「江戸の風物詩」としての性格をもつ時代物であるということは、昔からよく云われていることだが、このことなども、普通形式の時代物(あるいは歴史小説)では、あまり重点をおかれない主題であるとも思われるので、風物詩(江戸期において町人階層などの庶民によって行われた年中行事や、大川端風景の四季など)としての背景描写に秀逸なもののある捕物帳に、ファンは尽きぬ魅力を覚えるのである。  わが国大衆文芸〈時代小説〉を代表する三大捕物帳シリーズとして、本篇野村胡堂の「銭形平次捕物控」、岡本綺堂の「半七捕物帳」、横溝正史の「人形佐七捕物帳」の三大シリーズが、すぐにわれわれファンの脳裡に浮んでくる。この中で一番最初に登場したのが、大正六年〔一九一七〕一月から「文芸倶楽部」に連載が始った岡本綺堂の「半七捕物帳」である。そして、昭和六年〔一九三一〕四月の「オール読物」創刊と同時に、同誌上に連載が始ったのが、野村胡堂の「銭形平次捕物控」であった。そのあとを受けて横溝作品の「人形佐七捕物帳」は、昭和十三年〔一九三八〕一月から始っているという具合に、今でも人気高いこれらの代表的捕物帳シリーズが、すべて戦前の時代から書き始められている(それだけに‘八〇年代の読者層にも、なお受けているという人気の永続性が痛感される)ことに、改めて捕物帳に対する認識を新たにさせられるのである。 「銭形平次」誕生の頃について、著者は『亡くなった菅忠雄君〔オール読物編集者〕が、新聞社〔野村氏は戦前の報知新聞記者を勤めていた〕の応接間に私を訊ねて「雑誌を創《はじ》めることになったが、その初号から、岡本綺堂さんの半七のようなものを書いてくれないか」と持ち込んだのは、昭和六年の春のことである。「綺堂先生のようには出来ないが、私は私なりにやってみよう」と簡単に引き受けてしまったが、それから実に二十三年、銭形平次の捕物を今でも書き続けている。四十枚から五十枚の短編だけでも三百篇、中篇長篇を加えたら、三百二十篇にはなるだろう。作者の私自身も、よくもこんなに書き続けたものだと思っている』(野村胡堂「平次身の上話」より)  と興味深い言葉を語っている。そういう作者自身の言葉をみても判るように、おそらく捕物帳シリーズとして、最高の執筆量ではあるまいか。これだけ数多くの平次物語がよく創作できたものだと感心させられるのだが、そのヒミツの一端として、『私は銭形の平次に投銭《なげせん》を飛ばさして、「法の無可有郷《ユートピア》」を作っているのである。そこでは善意の罪人は許される。こんな形式の法治国は、髷物《まげもの》の世界に打ち建てるより外には無い』(同上)と語っているところにも、いかにも野村胡堂という作家のめざしていた小説的世界がよく判るのである。つまり「法のユートピア」を描くことが、平次物語の真髄だったのである。  従って、 『私は徹底的に、江戸の庶民を書く。とりわけ無辜《むこ》の女を虐《しいた》げる者は必ず罰せられるだろう。八五郎のように、私はフェミニストだからである。銭形平次と八五郎が、みんなに愛されている限り、私は書き続けるだろう。  江戸という時代は、制度の上には、誠に悪い時代であった、が、隠された良い面が数限りなく存在する。私はそれを掘りさげていきたい。捕物小説という、変わったゲームに便乗して』(同上)  云々という著者の結論にも、われわれを十分に納得させるものがあるということになる。  さて、前述のように昭和六年四月から始った「銭形平次捕物控」の記念すべき第一作になっている「金色の処女」と題する一篇をみると、南町奉行与力筆頭の笹野新三郎の手先の御用聞として活躍することになるのが、主人公の銭形平次である。のちに平次の恋女房となるお静が、この第一話では、まだ両国の水茶屋の看板娘として登場しているあたりも面白い。そして、重要な脇役となるガラッ八の八五郎は、第一話ではまだ登場していない(ついでにふれておくと、八五郎が創作された作中に登場し始めるのは、第三作「大盗|懺悔《ざんげ》」〈昭六〉からである)。この処女作の物語は、徳川三代将軍家光の治政時代、大塚御薬園を預かる本草《ほんぞう》家の峠宗寿軒という曲者が、将軍家光の生命を狙うという不敵な陰謀事件を、平次の大活躍で未然に防《ふせ》ぐことができたという、若き日の平次出世物語になっている。これをみても判るように、平次が生きていた時代背景は、三代将軍家光の時代〔寛永元年〜慶安四年・一六二四〜五一〕であったのである。ところがこれでは都合が悪く、テレビ・映画の銭形平次をみても分かるように、ずっと時代をくりさげて、文化・文政期〔一八〇四〜二九〕頃の江戸の時代風俗を取入れた物語に変ってきているのである。このことについても、著者自身、 『実際は元禄以前、寛文万治までさか上った時代の人として書き起こされたものであるが、御存知の通り、それは挿絵の勝手、風俗の問題——衣裳から小道具まで、はなはだ読物の世界に不便ではあるために作者の我がままで幕末——化政度の風景として書かれ、特別な考証を要するもの以外は、はなはだ済まないことではあるが、ほほ冠《かむ》りのままで押し通している』(「平次身の上話」より)  とちゃんとことわってあることもあって了解できる。確かに銭形平次の時代背景としては、江戸初期よりも幕末のほうが、より変化もあって、物語は面白くなるといえるようである。  銭形平次のトレードマークともいうべき特技になっている投銭《なげせん》の着想は、一体どこから作者は得たかについても、ハッキリとのべている。中国古典名作「水滸伝」に登場する豪傑|張清《ちょうせい》が、錦の袋に入れた小石を腰に下げていて、危急のさいにはこれを飛ばして相手を悩ませるという妙技にヒントを得たものということであり、平次の場合は、石でなく永楽銭が使われていることも、成功している。  次にこれも銭形平次物語の大きな特長になっているものに、善意の犯人を、平次は暖かく扱ってやることがあげられる。ときには犯人を捕えないで見のがしてやったりもする温情家の平次である。 『——刑罰主義への不満が私の「銭形平次」の寛大な裁き方になってあらわれていると思う。なんでも統計をとった人の話では私の捕物帳の七十何パーセントかは犯罪者を許しているそうである。その点では従来の捕物帳とはぜんぜん違っているといっていい。私は犯罪者を許す捕物帳の元祖といってもいいかもしれない』(「平次と生きた二十七年」より)  という作者の言葉に照らしても、平次シリーズを一貫する作調・モチーフというものが鮮明に示されている。現代にみられるような科学的捜査も皆無であった江戸時代の犯罪捜査物語であるだけに、どうしても人情味の濃いヒューマニスチックなストーリー構成がとられるのも当然だろう。そういうところも銭形平次物語の独自の面白さなのである。 「捕物帳」といえば、今では銭形平次や三河町半七に代表されるような捕物の物語を記したものであるという印象が、一般にも定着しているわけだが、史料的な考証面での捕物帳というものは、手先の岡っ引たちの報告をまとめた与力や同心が、これを町奉行所に報告すると、書役がこれを一応書きとめておくメモのような当座帳を捕物帳とよんでいたということである。従って、現在の捕物帳という名詞が与えるイメージとは、実際のものはまるで相違するものであったのである。  昭和三十二年〔一九五七〕八月発表の「鉄砲の音」(「オール読物」)を最終作品として終結した「銭形平次」シリーズは、文字どおり、その質量ともに卓抜なものがあり、野村胡堂の代表作になっている大作である。胡堂作品が長い歳月にわたって幅広く大衆読者層に歓迎され続けてきたという文学的業績に対し、昭和三十三年〔一九五八〕には、第六回菊池寛賞が授賞され、三十五年〔一九六〇〕には、紫綬褒章が授賞されている。  戦前戦後を通じて大衆文芸〈時代小説〉作家として一貫して創作活動に励んだ野村胡堂は、昭和三十八年〔一九六三〕に八十一歳の長寿を全《まっと》うしてこの世を去っているが、胡堂によって創作された庶民のヒーロー銭形平次は、これからもなお若々しく生き続けてゆくことと思われる。  武蔵野次郎